高木彬光 姿なき女 目 次  姿なき女  失われたダイア  夜の野獣《やじゆう》  ショックで殺せ  蛇《へび》の罠《わな》  殺人|予告篇《よこくへん》  失われた過去《かこ》  姿なき女   女探偵《おんなたんてい》登場す 「ここだな?」  赤と青とのネオンで横にアマリヤと書かれた文字をにらんで、ひとりごとをもらすと、松山《まつやま》警部は大きなガラスの扉《とびら》をおした。  薄暗《うすぐら》い照明の喫茶店《きつさてん》だった。一面に、煙草《たばこ》の煙《けむり》がたなびき、セレソ・ロサのメロディーが店いっぱいにひびきわたり、どこに相手が待っているのか、一目ではわからなかった。 「松山さん、ここよ」  左の手前のボックスから、一人の女が立ち上がった。三十一、二の、きりりとしまった男顔の、熟《う》れきった女のあふれるばかりのWと、発剌《はつらつ》とした、行動的なMの魅力《みりよく》とを、一身にかねそなえているような女——私立探偵《しりつたんてい》の川島竜子《かわしまりゆうこ》だった。 「失敬、遅《おく》れてすまなかったね」  竜子がまだ、ランドセルを背負《せお》って小学校へ通っているころからのつきあいだから、警部も、今さら他人|行儀《ぎようぎ》な口もきかない。どっかりと、その前の椅子《いす》に腰《こし》をおろして、 「ちょっと会議があったので——ところで、重大な用件というのはいったい何だい?」 「まあ、ひさしぶりにあったのに、そんなにせかせかしなくたっていいでしょう。まあ、何かめしあがれ」  警部は、ウエイトレスの持っているメニューには眼《め》もくれず、 「僕には紅茶——ウィスキーを落して。ところで、君のお父さんからもたのまれているんだけれど、君だって、いつまでもこんな商売を続けているわけにはいかないだろう。そろそろ、このあたりで足を洗って……」 「もう一度、お嫁《よめ》にいって、赤ちゃんを生んで早く孫の顔を見せてくれないと、わしは死んでも死にきれないというんでしょう。パパのせりふはいい加減わかっているわ」  松山警部は苦笑いして、煙草《たばこ》に火をつけた。竜子には、何度こんな意見をしたことか、そして何べんはねつけられたか、警部はその回数もおぼえていない。  竜子の父は九州のある炭鉱主、裸一貫《はだかいつかん》から身を起こして巨億《きよおく》の富をきずきあげた、文字通り立志伝中《りつしでんちゆう》の人物だった。その激《はげ》しい気性《きしよう》を兄弟《きようだい》の誰よりも強くうけついだのか、竜子は子供の頃《ころ》からいうことなすことがすべてかわっていた。女の子は、誰でも大きくなったらお嫁さんになるとか、流行歌手になるとか、女優になりたいとか、夢《ゆめ》はたいていきまっているようだが、竜子はわずか十|歳《さい》のころ、警察畑に身を投じたばかりの彼をつかまえて、 「おじちゃん、今度警察へつとめたの、かわいそうね」  と同情するようにいったことがある。 「なにがいったいかわいそうなんだ?」 「だって、探偵《たんてい》小説を読んでいると、警察の人って、みんなうすのろでお馬鹿《ばか》さんでしょう。おじちゃんも、いまにあんなふうになるかと思うと、気の毒で見ていられないわ」  これが、十歳の少女のせりふだから、彼もその時はあいた口がふさがらなかった。 「そんな生意気なことをいってると鬼《おに》に舌《した》をぬかれるよ。そんなことをいって、竜子ちゃんは大きくなったら、いったい何になるつもりだい?」 「わたし……シャーロック・ホームズになっておじちゃんに助太刀《すけだち》をしてあげるから」  この恐《おそ》るべき子供が、いまはりっぱな女性となって、彼の眼《め》の前に坐《すわ》っている……シャーロック・ホームズまではいかないとしても、少女時代の夢《ゆめ》を実現して、一人前の私立探偵《しりつたんてい》となって——  こんな十何年前の話など、警部はとっくに忘れていたから、竜子が結婚適齢期《けつこんてきれいき》に達したころ、数かぎりなくあった縁談《えんだん》を一つのこらずはねつけて、私立探偵|川島雄太郎《かわしまゆうたろう》と結婚するといい出したときには、おどろいて開《あ》いた口がふさがらなかった。竜子の父親にもたのまれ、自分でも心からそう思って、ずいぶん意見もしたのだが、竜子は周囲のあらゆる人々の反対をおしきって、この結婚を強行してしまったのである。  しかし、その結婚生活は長くは続かなかった。その数年後、まだ子供も生れないうちに雄太郎は謎《なぞ》の轢死体《れきしたい》となってこの世を去り、竜子は美しい未亡人として、この世にとり残されたのである。  誰でも、竜子のわがままはこのあたりで終りを告げるだろうと思った。夢《ゆめ》も実現して見れば案外|魅力《みりよく》を失うものだし、私立探偵《しりつたんてい》の妻として、何年か苦労をしてくれば、眼《め》もさめて、今度こそしかるべき相手と再婚《さいこん》して、平凡《へいぼん》な家庭生活に入ると思ったのだ。  だが、この予想は今度も完全に裏切られた。この若さと美貌《びぼう》と才気と実家の背景とがあれば、今度もどんな良縁《りようえん》でも見つかるはずなのに、竜子は夫の遺志をついで、自分でこの川島私立探偵事務所をつづけて行くといい出したのである。  松山警部も、今度は忠告さえしなかった。どうせ有閑《ゆうかん》未亡人の物ずきから始めた道楽では、長続きするわけはあるまい。半年もしないうちに、売家の広告を出すだろうと、たかをくくっていたものだが、それから三年、竜子は悠々《ゆうゆう》この仕事を続けている。いや、それどころか、雄太郎の生きていたころよりもかえって成績が上がっているのだ。しかも、縁談《えんだん》の相手の身元調査とか、会社の信用調査とか、そうした月なみの仕事ばかりでなく、犯罪|捜査《そうさ》にまで手をつけ、血なまぐさい修羅場《しゆらば》に出入りして、専門家の松山警部さえ驚《おどろ》くような活躍《かつやく》を続けているのだから、彼もこの頃《ごろ》では竜子の力を無視出来なくなって来た。一時、新劇に凝《こ》って、自分で舞台《ぶたい》に立ったのも、このための準備ではなかったか。この女は、初めから探偵《たんてい》となるために、この世に生れて来たのではないかとさえ、内心では思わずにはおられなかったくらいである。  しかし、百戦練磨《ひやくせんれんま》の警部のことだから、そういう心の中の動きなど、絶対に顔に出すようなことはしない。はこばれて来た紅茶をかきまわしながら、 「君が再婚《さいこん》しないというのは、まことに残念だな。実は僕の知合いで、一人いい相手がいるんだが……」 「あら、わたしは占《うらな》いの先生に、夫を剋《こく》する相《そう》だといわれているのよ。わたしと結婚《けつこん》する男は誰でも、まともな死に方は出来ないんですって……これ以上、知ってて罪を重ねたくないわ。そのお方には、もっとお若い、おきれいなお嬢《じよう》さんを見つけてあげなさいまし」 「うん……」  警部もしょうことなしにうなずいて、 「さて、それでは女ホームズ先生、そろそろ御用をうけたまわりましょうか?」  とからかうような調子でいった。 「事件よ。もちろん……」 「誰か、君の知りあいの女の子でも家出してその捜索《そうさく》でもたのまれたのかい? 妙《みよう》なところで、君の後始末《あとしまつ》をするのはごめんだぜ」 「そんなこと、あなたにたのみはしないわ。これをごらんなさい」  竜子は、あたりを見まわしながら、テーブルの下で、小さな紙包を開けて見せた。  その中の箱《はこ》、白い綿の中に横たわっている白いものを見つめて警部は思わず声をあげ、煙草《たばこ》を膝《ひざ》に落したことにもしばらく気づかないでいた。  それは女の指だった。根もとからぷつりと切り落された一本の指が、紅《あか》いルビーの指環《ゆびわ》に飾《かざ》られたまま、その中に秘められていたのである。   ヌードのモデル  商売|柄《がら》、松山警部は人間の血というものに対して大変な不感症《ふかんしよう》になっている。いつもなら、少しぐらいむごたらしい惨殺《ざんさつ》死体を見たところで、顔色一つ変えはしないのだが、この時ばかりは、なぜか知れないが、自分でも顔の筋肉がかたく冷たくこわばって行くのを感じていた。 「この指は? それはいったいどうしたんだい? まさか、僕をびっくりさせようと思って、大学の解剖《かいぼう》室あたりから、死体の指だけ切りとって来たんじゃあるまいな?」 「そんな人のわるい悪戯《いたずら》なんかしやしないわ。ある人が、わたしの事務所へとどけてくれたのよ」 「いつ、だれが、どうして?」 「けさ、わたしがまだ事務所へ行く前に、弓田慶子《ゆみたけいこ》という二十七、八の女の人がやって来たのね。わかくてきれいな人だけれど、品《ひん》がなくって、左の手にはぐるぐる包帯をまいていたそうよ。わたしがまだ来ていないって事務員がいったら、それじゃあ、お昼ごろ、また出なおして来ますから、おいでになったらこれをお目にかけて下さいといって、この指の包みを残していったのよ」 「うん……それで、その女は結局もどっては来なかったんだね? だが……」  警部はいくらか、拍子《ひようし》ぬけしたような顔で、 「その女が、左手に包帯をしていたとすると、これは大した事件じゃないかも知れないな。自分で指を切るということは、それほど類のないことじゃない。たとえば、やくざ仲間では……」 「そのくらいのことは、わたしだって知ってるわ。でも、女が男に心中《しんじゆう》だてを見せようとして切るのはたいてい小指らしいし、それに切った指を、わたしのところへ持って来たって、何にも役にたたないはずじゃない? これは殺人……りっぱな殺人事件でしょうね」 「だが、切られた指が見《め》っかったといって、それだけでは殺人事件とはいえない。肝腎《かんじん》の死体が見つからなくっちゃ、捜査《そうさ》一課は出動できない」 「すこぶるつきのお役所的な考えかたね。桐一葉《きりひとは》落ちて天下の秋を知る——という名言にもある通り、物事はまだはっきりと相手の動きが定まらぬうちに、こっちが先んじて動くところに無限の味があるのよ」 「姫君《ひめぎみ》、またいつもの、自己陶酔《じことうすい》が始まったな。そういわれても、東京には四百万人、男がいるし、統計的には女はさらにうわ回る……」 「でも、この切られた指の持主は、その中で一人しかいないはずね……その持主に関係のある人物は、もうすぐ、この店へやって来るわ」 「どうして、そんなことがわかる? まるで千里眼《せんりがん》か何かのように……」  竜子はハンドバッグの中から、一枚の名刺《めいし》をとり出した。 「ここに、世田谷《せたがや》区|北沢《きたざわ》三ノ八八六、弓田金三郎《ゆみたきんざぶろう》——と印刷してあって、その名前を消して慶子と書いてあるでしょう。家庭の主婦ならたいてい名刺を持ってないから、こういった便宜上《べんぎじよう》の処置もしかたがないわね。お昼になっても、約束《やくそく》の相手がやって来ないから、わたしも助手をやって、この家を調べさしたのよ」 「それで?」 「おかげで、いろいろのことがわかったわ。旦那《だんな》さんは、写真家でかなりの収入があるのね。写真家といっても、うちで写真をやっているんではなくって、芸術写真をとっては、雑誌などに売りこむ方よ。もともと、実家がよかったので、カメラ道楽を始めたのが、次第に病《やまい》コーモーに入って、芸が身を助けるようになったのね。ところが四、五日前のこと、その奥《おく》さんが、突然《とつぜん》家出してしまったんですって」 「芸術家と称するタイプの人間には、よくある例だ。ことに写真家だというなら、ヌード写真や何かはとりつけているだろうから、そのモデルの誰かとの間が、芸術的な関係の最後の一線をふみ越《こ》えて、肉体的作品が生れそうになったか何かで、おきまりの夫婦|喧嘩《げんか》の末に、奥さんが家出したんじゃないのかな、実家の方は調べたのか?」  竜子は首をふって立ち上がった。ちょうどその時、入口の扉《とびら》を開けて入って来たのは、明らかに写真家と思われる四十がらみの男であった。肩《かた》にローライ、手にライカというのは一むかし前のカメラマンの理想だったらしいが、何しろ技術も進歩したので、肩から三十五ミリの高級機を二台もぶらさげいい被写体《ひしやたい》はないかというような顔で、店の中をぐるりと見まわした。 「弓田さんでいらっしゃいますね?」 「川島さんですか? いくら家内にたのまれたとしたってむだですよ。もう、僕たちの間には、完全にひびが入って、どうしようもないんです」  にべもなく、吐《は》き出すようにいうのを、ひきずるようにして腰《こし》をおろさせると、 「こちらはわたくしの助手の松山さん……わたくし、奥《おく》さんとは小学校から女学校にかけて、とても仲のいいお友だちでしたの。戦争のおかげで、おたがいに音信不通になりましたものですから、慶子さんがどうしているかちっとも存じませんでしたけれど、そう、あれはきょ年の五月ごろのことでしたかしら。偶然《ぐうぜん》銀座でおあいして……それから、やっと御住所もわかったんですけれど……そしたら慶子さんが二、三日前、うちへおいでになって……」  竜子のはったりには、警部もあきれかえってしまった。  自分を助手にしたてあげるくらいはまだしも、よくもここまで白々しい嘘《うそ》がつけるものだと眼《め》を見はって、子供のように邪気《じやき》のない竜子の顔を見つめていた。 「それで……僕にあわせる顔がなくって、あなたにわびをいれてくれというんですか? ははははは、馬鹿《ばか》な……それじゃあいったい、慶子の恋人《こいびと》というのはだれです?」 「慶子さんの恋人?」 「そうです。そのことは全然|棚《たな》にあげて——図々《ずうずう》しいにもほどがある」 「でも、あなたの方にしたところで、その証拠《しようこ》をにぎっておられるわけじゃないんでしょう」 「ありますとも……絶対たしかな、科学的な証拠が……誰に見せても、なるほどと納得《なつとく》してくれるに違《ちが》いない確証が」 「それは?」 「慶子を撮影《さつえい》した写真を、それもヌードの写真を、家へ送って来たやつがあるんです。どこの誰かは知れませんが、顔もかくしてはいないんです」  竜子と警部は、とたんに顔を見あわせた。 「それで慶子さんは、いったい何とおっしゃってますの?」 「盗《ぬす》ッ人《と》|猛々《たけだけ》しいとはあのことでしょう。泣いて、自分にはわけがわからない。身におぼえのない濡衣《ぬれぎぬ》だというばかりで……」 「でも、写真なら、修整ということもありますわね。うまくやったら、首だけ慶子さんの写真からとって、ほかの人の体の写真につぎあわせて……」 「おあいにくさま。これがほかの人間ならばともかく、僕にはそのいいわけは通りませんね。僕は商売が商売だから、慶子の体の特長は、黒子《ほくろ》一つまで知りぬいている……絶対にあの写真は、慶子を直接写したものに間違《まちが》いないんです」  竜子はしばらくためらっていた。が、ようやく決心したように、あの包みをとり出すと相手の眼《め》の前で開いて見せた。 「じゃあ、あなたはこの指に見おぼえはございません?」  弓田金三郎は愕然《がくぜん》としたように顔色をかえた。思わず声をふるわせて、 「これは? どうして? 慶子の指を?」   指のない女の死体  それから三十分ほどして、松山警部と竜子と弓田金三郎の三人は、この店をとび出すとあわてて甲州《こうしゆう》街道に車を走らせた。  話の途中《とちゆう》で、警視庁から警部に電話の連絡《れんらく》があって、奇妙《きみよう》な殺人事件の突発《とつぱつ》を知らせて来たのだ。おりもおり、警部の心にかもし出されていた恐怖《きようふ》を、さらに一層かきたてるように——  所は荻窪《おぎくぼ》のある邸宅《ていたく》、そこへ差出人の見当もつかない大型のトランクが運びこまれたのだ。ふしぎに思って、家のものが開いて見ると、中にはわかい女の絞殺《こうさつ》死体が、断末魔《だんまつま》の苦悶《くもん》のあともむごたらしく、つめこまれていたのだった。しかも、その身につけている服は、いま弓田金三郎の口からきいた、慶子の家出当時の服装《ふくそう》とぴったり一致《いつち》するのだし、しかもその左手の薬指は、そのつけ根からぷっつりと切り落されているのだった。  竜子の言葉を、たえず心に打ち消しながら、それでもはらいのけきれなかった漠然《ばくぜん》たる恐怖《きようふ》が、これほどはっきりした形をとってあらわれて来ては、警部もおどろかずにはいられなかった。  早速、二人に手短にこのことをうちあけると、この死体の発見された現場へと急いだのである。  竜子は、何を考えこんでいるのか、車に乗ってからは、一言も口をきかずにだまりこんでいた。ただ金三郎の方が逆上したように、 「警部さん、その女は、ほんとうに慶子でしょうか?」 「わかりません。まだ私には、何とも申しあげられません……その点をはっきりしたいと思いましてこうしてごいっしょに来ていただいたのですが……」 「でも、誰にいったい何のため、慶子は殺されたんでしょう? 何だってまたその前に、自分で指を切って、川島さんのところへとどけるような気をおこしたんでしょう?」 「そのへんの事情は私には何とも申しあげかねますね。死体も調べ、その荷物がどうしてその家へはこびこまれるようになったか、その間の事情もしらべて見ませんと」  とりつくしまもないような警部の態度に、これ以上質問を続けてもむだだと思ったのか金三郎もだまりこんでしまった。ただ、時々まるで気が狂《くる》ったように髪《かみ》の毛をかきむしりながら、 「慶子、慶子、どうしてお前は……」  とつぶやくばかり。さっきはああして自分たちの前に、嫉妬《しつと》と怒《いか》りをぶちまけて見せたが、やはりこの男は妻に首ったけに惚《ほ》れているのだ……その未練《みれん》と不安とをかくそうとしてもかくしきれないでいるのだと、警部は腹の底で思った。  駅の前の交番で一旦《いつたん》車を停《と》めると、そこから助手席に警官をのせ警部たちは目的の家に急いだ。  車が停《とま》ると、一人の刑事《けいじ》がかけよって来て扉《とびら》を開けた。竜子にも前から顔なじみの吉村《よしむら》という刑事だった。 「ああ、川島さん御苦労さま。お早々と——相かわらずの地獄耳《じごくみみ》ですねえ……」 「べつに地獄耳というわけじゃないけれど、今度は死体からの御招待で……わたくしの方が、あなた方より、この事件に気がついたのは早かったのよ」  竜子が吉村刑事をつかまえてこんなことを話しているうちに、警部は煙草《たばこ》に火をつけ乱れた気持をおし静めながらあたりを見まわした。  静かな夜の中流住宅街……その真中の「河辺《かわべ》」と標札《ひようさつ》の出ている二階建の洋館が、この死体づめのトランクのはこびこまれた家だった。事件の内容までは知るまいが、警官たちの動きに、何かただならないものを感じたのか、近所の人々が多勢《おおぜい》姿をあらわして、遠まきにこの家をかこんでいる。  警部は、火をつけたばかりの煙草を投げすて、二、三度深呼吸をすると、 「さあ、参りましょう」  と竜子と金三郎をうながした。  玄関《げんかん》へ入ると、土間《どま》にかがみこんでいた五、六人の係官たちが、ぱっとはじかれたように立ちあがって警部に会釈《えしやく》した。警部もかがみこんで、死体の顔をじっと見つめ、ふりかえって、 「弓田さん、この死体はやっぱり奥《おく》さんですか?」  金三郎の顔には全く血の気《け》がなかった。両方の眼球もとび出さんばかりに大きく眼《め》を見はり、ぶるぶると肩《かた》をふるわせ、狂《くる》ったように、 「慶子、たしかに慶子です……絶対、間違《まちが》いありません」 「お気の毒なことをしました……やっぱりそうだったんですね。人違《ひとちが》いであるようにお祈《いの》りしていましたが……」  なぐさめるようにつぶやくと、警部は今度は竜子の方へ眼《め》くばせをした。竜子がポケットからとり出した、指の包みをうけとって、死体の方にあわせて見ると、 「これもたしかに間違いない……この指は、たしかに、この死体から切りとられたんだ」  一瞬《いつしゆん》、竜子もうたれたようによろめいていた。いつもの彼女とはうってかわった震《ふる》え声で、 「それじゃあ、この指をわたしの事務所へ届けたのは、この人、慶子さんではなかったのね……」 「死体を見れば一目でわかる。もちろん、正確なことは解剖《かいぼう》しないと何ともいえないが、恐《おそ》らくこの女が殺されたのは昨夜のうち……幽霊《ゆうれい》でもないかぎりは、それから自分の指を持って、のこのこ君の事務所へやって来るというような、器用なまねは出来まいね」 「それじゃあ、誰が?」  この一言は異口同音《いくどうおん》に、竜子と金三郎の口からとび出した。 「千里眼《せんりがん》や高島易断《たかしまえきだん》じゃないんだから、そこまでは、僕にはいまのところ何ともいえないね。それはこれから調べるんだ」  警部はふたたび眼《め》をあげて、一同の顔を見まわした。 「それで、このおたくの御主人は、どこにおられる? ちょっとお眼にかかって、いろいろと、事情をお聞きしたいんだが……」 「私です。私が河辺|鋭一《えいいち》です」  廊下《ろうか》の方から、一人の和服の男が姿をあらわした。弓田金三郎とは、ちょうど同じくらいの年輩《ねんぱい》、ただ彼の方が、ずっとふとって、かっぷくがよかった。 「あなたが河辺さんですね。私は……」  警部の自己|紹介《しようかい》も終らぬうちに、彼は突然《とつぜん》声をあげた。 「弓田……おお、弓田じゃないか?」 「河辺!」 「どうしたんだ。その後すっかり御無沙汰《ごぶさた》してるが、警視庁へでもつとめたのか? そんなに写真機をいくつもぶらさげて、死体をとりにやって来たのか?」  警部も呆気《あつけ》にとられたように、二人の顔を交互《こうご》に見くらべていたが、やっと話の中にわりこんで、 「御存じだったんですか? お二人とも……」 「戦争中は、戦友でおれお前の仲でしたよ。ただ終戦後は、そう一度もあわなかったねえ」 「それでは、この死体が、弓田さんの奥《おく》さんだと御《お》気づきにはならなかったんですね?」 「これが……これが、弓田さんの奥さんですって?」  河辺鋭一は狂《くる》ったような悲鳴をあげ、いうにいわれぬ運命のふしぎさに、呆然《ぼうぜん》としているようだった。   女の幽霊《ゆうれい》  その翌日の夜のこと、銀座の酒場アルビニヨンの二階で、その店のマダム篠原恭子《しのはらきようこ》は、カメラの前でいろいろのポーズをつけていた。撮影《さつえい》しているのは、いま新進カメラマンとして売り出している山名竜造《やまなりゆうぞう》。『写真芸術』という雑誌からたのまれて「銀座の女」と題する一連の作品を発表しているが、これはその中の一枚なのだろう。 「御苦労さん、いいのがとれたよ」  ローライのハンドルをまきあげながら、ほっと一息ついたのに、 「まあ、おビールでもめしあがれ。今日はお礼におごりますわよ」  恭子は彼の前のコップにビールを注《つ》ぎ、 「慶子さんが殺されたのね? 新聞をごらんになって?」 「そうらしいね」 「薄情《はくじよう》な人……男の人って、初恋《はつこい》の相手があんなむごたらしい殺されかたをしたというのに、べつに何とも感じないのかしら?」 「過ぎたことだよ。そんなことをくよくよしていて何になる? あのころ、弓田さんは世間でも大いに認められていたし、僕はまだお尻《しり》に卵の殻《から》がついてたひよっこだし、慶子さんが、僕のところから離《はな》れて行ったとしてもべつに不思議はなかったよ」  とはいうものの、やはり何かの苦い思い出が胸にこみあげて来るのか、彼は眼《め》をつぶって、一息にビールを流しこんだ。 「でも、知っている人があんな目にあうと、誰だっていい気持がしないわ。わたくし、今日お悔《くや》みに行って来たんだけれど、弓田さんの顔ったら、ほんとうに淋《さび》しそうだったわ」 「ふしぎな因縁《いんねん》だね。むかし弓田さんに惚《ほ》れてふられた君と、あの人を弓田さんにうばわれた僕とが、こうして顔をあわせて、苦い酒をのむというのも、きっと前世《ぜんせ》からの宿命とでもいうのだろうね」 「わたし、あの人の話をきいた時ちょっと思ったのよ。家出をしてから、慶子さんは、あなたのところをたよって行ったんじゃないかしらと。それをあなたがかくまっていて……」 「馬鹿《ばか》、馬鹿な! 妙《みよう》なことはいわんでもらいたいな」  竜造はこわい眼をして相手をにらんだ。だが平静をよそおってはいるものの、コップにのばした指が、かすかにふるえているところを見ると、恭子の言葉には、彼の胸をずぶりとえぐって来るような、何かの秘密があったのかも知れない。 「御免《ごめん》なさいね。弓田さんと慶子さんの夫婦仲は、あんまりいいようじゃなかったし、女だったら、誰だって、初恋《はつこい》の相手というものは、一生忘れられないものよ——」 「よしてくれ、それではまるで、僕がこの事件の犯人だといわんばかりじゃないか」  噛《か》みつくように竜造はどなった。 「僕は帰る。こんな不愉快《ふゆかい》な話はもうしたくない!」 「お怒《おこ》りになったの?」  恭子の言葉をろくに聞きもせず、竜造はギャゼットバッグを肩《かた》にかけ、憤然《ふんぜん》として店を出た。  だが、彼は店を出て四、五|間《けん》も行かないうちに、顔色をかえて立ちどまった。酔《よ》っているのか、自分はあれっぽっちのビールに酔って、ありもせぬ幻影《げんえい》を見ているのか——というふうに、ぶるぶると二、三度首をふりながら、 「慶子、お前は!」  ちょうど、彼の視線が向かっている方向、小半丁《こはんちよう》ほど離《はな》れたあたりに、一人の女がたたずんでいたのだ。憑《つ》かれたように、彼はその女の方へ走りよったが、自動車の流れにさえぎられて手間どっているうちに、女の姿は横の小路に消え、彼がようやくその場所へたどりついた時には、どこにも影《かげ》さえ見えなかった。  その夜おそく、ぐでんぐでんに酔っぱらって、竜造は自分の家へ帰って来た。彼の妻は一年ほど前から肺を患《わずら》って入院しているために、家には内弟子《うちでし》とお手伝いしかいない。 「先生、お帰りなさい。御苦労様でした」  と玄関《げんかん》の戸をあけてくれたその弟子に、 「留守中、誰か来なかったか?」 「弓田さん——弓田慶子という女のお方がお見えになりました」 「弓田慶子?」  顎《あご》に一発、アッパーカットを食ったようによろよろとよろめいて、 「どんな女だ? どんな用事で?」 「片手にぐるぐる包帯をした、若いきれいな方でした。用件は——この写真をお目にかけてくれとおっしゃって」 「その写真は?」 「テーブルの上にのせておきました」 「うん、今日はもう寝《ね》てもいいよ」  酔《よ》いもさめはてたような真青《まつさお》な顔で、竜造は自分の部屋《へや》へ入った。服もそのまま、どかりと崩《くず》れるように坐《すわ》ると、がたがたと震《ふる》える手で、大型の封筒《ふうとう》の中から、一枚のヌード写真をぬき出した。 「これは!」  そのモデルには、恐《おそ》らく見おぼえがあるのだろう。血を吐《は》くような声でうめくと、彼は戸棚《とだな》をあけて、密着写真をはってあるスクラップブックをとり出して、そのページをくった。そして、三十何枚かのヌードを貼《は》ってあるページを、じっと瞬《まばた》きもせずに見つめていた。 「違《ちが》う、やっぱりこれじゃない……しかし、この写真は、いったい、誰が、どうして?」  とぎれとぎれの言葉が、まるでうわ言のように、彼の口からとび出した。たしかに、このテーブルの上の写真と、スクラップブックの上の裸女《らじよ》とは、同じ一人の人物をポーズをかえ、角度をかえて写したものと思われる。ただこの引伸《ひきのば》し写真に一致《いつち》するような密着写真は一枚も発見されなかった。  何を思ったか、彼はそのページをやぶき去り、くしゃくしゃにまるめて、もう一度戸棚をかき回し、ネガアルバムをとり出した。  その番号をしらべていた彼は、はっとしたように耳をすました。  どこかで、ベルの音がしたのだ。玄関《げんかん》の方で誰かがベルをおしたのだ。  あわてて、テーブルの上のものを戸棚へつっこんでいるうち、お手伝いが取次ぎに出たらしい。部屋《へや》の襖《ふすま》がすーっと開いて、 「旦那様《だんなさま》、弓田さんとおっしゃる女のお方がお見えでございます」 「何だって……」  悲鳴のような声だった。われを忘れて、お手伝いをおしのけ、玄関へとび出して見ると、そこには猫《ねこ》の子一匹見えない。 「どこにいるのだ! どこにいる!」 「まあ、どうしたんでございましょう?」  お手伝いの声もふるえていた。その顔も幽霊《ゆうれい》を見たように青ざめていた。 「たしかに、おいでになったんでございます。たしか……さっきおいでになったのとおなじお方、手に包帯をなすったお方で……」  竜造は玄関の土間《どま》へかがんで、その上におちていた、きらりと光るものをとりあげた。  指環《ゆびわ》だった。黄金の台の上の細かな彫刻《ちようこく》もそしてその上にはめこまれた宝石の色も形も大きさも、弓田慶子のしていたもの、あの切りとられた指がはめていたものと、寸分《すんぶん》も狂《くる》いがないように思われた。   霊魂《れいこん》と脱殻《ぬけがら》  地方と違《ちが》って東京では、近所の交際もうるさくない。文字通り隣《となり》は何をする人ぞ——といったような光景が、あらゆるところで展開されているのだが、中でも、この死体をはこびこまれた家の主、河辺鋭一の素性《すじよう》だけは隣近所の人々にも、さっぱり見当がつかなかった。  佳枝《よしえ》という、わかい美しい妻もいる。自家用の自動車も持っていて、どこからか毎朝|迎《むか》えにやって来る。ほかに家族といってもない夫婦二人が暮《くら》すためには、少し広すぎる邸宅《ていたく》だが、これは自分のものではないただの借家なのだ。  しかし、こういう事件があった後だから、警察側でも一応は、彼の身辺を洗いあげたことはいうまでもない。  彼はもともと、福島の田舎《いなか》の水呑百姓《みずのみびやくしよう》の次男だった。東京へ出てからは文字通り苦学力行の連続で、いろいろの仕事にも手を出し、かなりの成功もおさめたが、どれも大成しなかった。性格的にも、見切りが早いといったらよいか、飽《あ》きっぽいといったらよいか、ある程度のことを完成すると、さっさと後を人手にわたして、次の新しい仕事にぶつかって行くような、そんなタイプの人間だったのである。  そして現在では、日本橋《にほんばし》の室町《むろまち》にある、小玉商事という小会社の重役をしていた。そのほかにもいくつかの仕事に関係して、名刺《めいし》の肩書《かたがき》だけはいかめしいが、事務所はあるビルの一室を借りているだけ、本職から入るものより、株を売買して見たり、商品に投機してみたり、そうした副収入の方がはるかに大きい様子だった。警視庁側でもそのほかに、何か、たとえば密輸などのような、荒っぽい後ろ暗い仕事に関係がありはしないかと、妙《みよう》にかんぐって、一応調査の手は進めたようだが、わずか一、二日の短い捜査《そうさ》では、べつにこれという、はっきりした証拠《しようこ》もつかめなかったようである。  その彼は事務所のソファーにもたれながら、来客としきりに今度の事件のことを話しあっていた。 「いや、何といっても今度という今度はとんだ目にあったよ。今まで一度もあったことのない女の死体をかつぎこまれちゃ、誰だってびっくりして、二の句がつげないじゃないか。それにその女がむかしの戦友の細君だということがわかったので、いよいよどうてんしてしまって……わけがわからなくなってねえ」 「でも、犯人はどうして、君のところへそんなものを送りこむ気になったんだろう? 運送屋の方はまだわからないのか?」 「それが、こんな事件になったもんだから、警視庁の方でも、必死にその経路を調べまわっているんだが、ふしぎなことには、誰一人私どもがとどけました——と名のって出る者がないのさ。人間の記憶《きおく》なんて、全く不正確なもんで、オート三輪が荷物をおろしているのは、近所の人たちだって見かけているんだが、車の番号も人相もおぼえがない。その荷物をうけとった家内の方も、書類に判をおしているくせに、いったいどこの運送屋か、どんな人相の男たちだったか、てんでおぼえがないというんだ……」 「それもあたりまえの話だよ」  相手の客は、合槌《あいづち》をうつようにうなずいて、 「普通《ふつう》の人間だったら、なかなか、警察官の喜ぶような情報は提供出来ないよ。いや、何か事件が起こって、嫌疑《けんぎ》をかけられたとしても、アリバイさえ立てきれるもんじゃない」 「全く……」  河辺鋭一がうなずいて、次の言葉を口から出しかけたとき、女事務員が近づいて来て、 「あの……篠原恭子さんとおっしゃる女のお方が、外でお待ちになっておられます」 「篠原恭子?」  鋭一の顔色はさっと変わった。相手の方が、かえってびっくりしたように、 「どうしたんだい? そんなにびっくりして」 「何でもない。バーのマダム……勘定《かんじよう》でもとりに来たんだろう。ちょっと失礼」  デスクの間を泳ぐようにして、鋭一は入口に近づき、扉《とびら》を廊下《ろうか》の方に押《お》しあけて思わずあっと叫《さけ》んだ。  廊下には人の影《かげ》もなく、ただ一足の女の靴《くつ》だけが、あわてて脱《ぬ》ぎすてたような形でおちている。 「どうかなすったんですか?」  彼の狼狽《ろうばい》した様子を見るに見かねたのか、その時、廊下の隅《すみ》の洗面所から出て来た青年が甲高《かんだか》い声でたずねた。 「いいえ、別に……何でもありません。ただ……お客さんが来たといわれて出て来たのに、どこにも見あたらないもんで、ちょっと、どぎまぎしたんです」 「女のお客さんじゃありませんか? 片手に白い包帯をした、きれいな人……」  鋭一の体は、木の葉のようにがたがたとふるえた。 「そうです。その女はどこへ行ったでしょう? そっちでお見かけになりませんでしたか」 「なるほど、ここがあなたのお部屋《へや》ですね」  青年は、鋭一の部屋のガラス戸の金文字をながめて、隣《となり》の部屋《へや》を指さし、 「あなたのところの女の子と、何か話をしていたと思ったら、その部屋へ入って行きましたよ。私もべつに不審《ふしん》にも思わなかったんですが……」 「ありがとう」  鋭一は、ノックもせずに、隣の部屋の扉《とびら》を開いた。  この部屋は、もと、ある計理士の事務所だった。ところが、二月ほど前、精神に異常を来《きた》したのか、彼はこの事務所の中で夜おそく首をつって自殺をとげたのだった。  それからというものは、縁起《えんぎ》が悪いと敬遠されて、今まで借手《かりて》もなく、空部屋になっている。——しかし、そういうことまでは、いまの鋭一の頭には浮《う》かんだかどうか。  扉《とびら》は手ごたえもなく開いた。その中に一歩ふみこんで、鋭一は気の狂《くる》ったような悲鳴をあげた。 「女が……女が殺されている!」  青年も、さっきの女事務員も、来客もあわてて部屋へとびこんで来た。そして、一瞬《いつしゆん》は誰もがはっと立ちすくみ、一瞬後には腹をかかえて笑い出した。 「ははははは、河辺君、君はまだ、女の幽霊《ゆうれい》にとりつかれているようだね。ははははは、幽霊の正体《しようたい》見たり枯尾花《かれおばな》——とは、こんなことをいうんだろうね」  そういわれるのももっともなのだ。ふだん鍵《かぎ》のかかっているはずの、この部屋の扉がどうして開《あ》いていたかは別として、壁《かべ》にかかっているものは、女の洋服ひとそろい。それが、ブラインドにさえぎられたうす暗い光線の下、それも第一印象では、女の首つり死体のように、見えたとしてもふしぎはない。 「この人ですわ! この人が!」  スイッチをひねって、部屋の電燈がついたとき、女事務員は狂ったように叫《さけ》び出した。 「いまやって来たのはこの人です。たしかにこれと同じ洋服を着ていたんです!」  服装《ふくそう》、それも同性《どうせい》の衣裳《いしよう》に対する女の直感というものは、本能的にあやまりのないものなのだ。確かに女は、この部屋へとびこみ服をぬぎすてたのだろう。しかし、それからどこへ消えたのか?  冷たい恐怖《きようふ》に満たされた、鬼気迫《ききせま》るこの部屋の中に人々は、石にかわったように黙《だま》って立ちつくしていた。壁《かべ》の洋服、床《ゆか》に落ちているナイロンの靴下《くつした》、白い包帯を血走った眼《め》で見つめながら……   影《かげ》もなく消えぬ  謎《なぞ》の女、幽霊《ゆうれい》かとも思われるこの女の奇怪《きつかい》きわまる出没《しゆつぼつ》は、当然松山警部の神経をも、極度に刺戟《しげき》せずにはいなかった。竜子がほかの用事もかねて、警部に顔をあわせたとき、彼は溜息《ためいき》まじりにいったものである。 「この事件は、いよいよ出《い》でて、いよいよわけがわからなくなって来たよ。どうだろう、一つ君の日頃《ひごろ》得意《とくい》とする女性《じよせい》的感覚源からの、直接役に立つような意見を聞かしちゃくれないかね」 「松山さん、今度は大分お困りらしいわね」  竜子も、唇《くちびる》の端《はし》にかすかな笑いを浮かべて、 「女というものはこわいものよ。ばらばらにしない女は首をつり——という川柳《せんりゆう》が、いつか新聞に出ていたけれど、あんなむごたらしい殺され方をした慶子さんが、魂魄《こんぱく》この世にとどまって、幽霊《ゆうれい》になって化けて出てきたとしても、何の不思議もないことよ」 「冗談《じようだん》じゃない。君のように現実的な女性の口から、幽霊のことなんか聞こうとは思わなかったよ。要するに、この事件には、幽霊のまねをして歩いて関係者のところをおどしまわっている女が一人存在するんだ。そいつが何の目的で、そんな酔狂《すいきよう》な真似《まね》をして歩いているのか、それについての君の御卓説《ごたくせつ》を聞かしちゃもらえんかね」 「そりゃあ、わたくしにしたところで、その幽霊に訪問される光栄をかたじけなくしたわけだから……満更《まんざら》、赤の他人じゃないし、何とかして成仏《じようぶつ》してもらいたいとは思うのよ。だけど、わたくしの方はいざ知らず、ほかのお二人は、何《いず》れ幽霊におどかされるような弱みを持ってたのかしら?」 「山名君の方は、僕のところへ訪ねて来て、いろいろとかくしていた事実というのを白状したよ。殺された慶子さんとは、亭主《ていしゆ》の眼《め》を盗《ぬす》んであいびきなんかしていたんだね……月に一度は必ず、どこかの温泉マークで。まあ、こんなことは、終戦後の今日《こんにち》じゃあ、そんなに珍《めずら》しい話でもないから、こんな事件でも起こらなければ、問題にも何にもならなかったんだけれど、本人にしてみれば、やっぱり寝《ね》ざめがわるいんだろう」 「それで、その山名さんの方も、慶子さんをモデルにして、いろいろヌード写真や何かを撮《と》っていたというわけね。悪趣味《あくしゆみ》だわ」 「僕も悪趣味だとは思うけれどね。本人にいわせれば、芸術的感興の赴《おもむ》くところ、しかたのない衝動《しようどう》だというんだね」 「それで、幽霊《ゆうれい》の持参したヌード写真というのは?」 「それが……おかしなことにはね。弓田金三郎のところへ送って来たという写真にそっくりなんだ。少なくとも、同じネガから引き伸《のば》したものなんだね。ただ、山名竜造の方にはその写真はおぼえがないということだ……本当のことをいってるかどうかはわからないが」 「それでもう一人の河辺鋭一さんの方は?」 「これだって、死体をかつぎこまれたくらいだから、前世《ぜんせ》の宿縁《しゆくえん》までたどれば何かの関係があるのかも知れないがね……どうしても、慶子さんとの直接の因縁《いんねん》をたどることは不可能なんだよ。死体でいい加減|迷惑《めいわく》しているのにこれ以上幽霊にたたられるおぼえはないといって神主をたのんでおはらいなんかする始末さ。何だか、その素性《すじよう》についちゃ不審《ふしん》な点もあるんだが、はっきりとした嫌疑《けんぎ》はまだこっちの網《あみ》にはひっかかって来ない」 「わたくしも、河辺鋭一という人には、何かの秘密がありそうに思うんだけど……この幽霊の方にも、何かの秘密がありそうね。表面に出ている事実ばかり拾いあげると、気まぐれに、あっちこっちと所きらわず歩きまわっているようだけど、きっとかげでは、何か大きな一貫《いつかん》した目的を持って、歩きまわっているのよ。この次には、どんな恰好《かつこう》で、どこへあらわれるか楽しみねえ」  竜子は、悪戯《いたずら》っ子のように、あどけない微笑さえ浮《う》かべていた。     *  まるで、竜子の期待にこたえるように、この謎《なぞ》の女は、その夜もまた、幽霊《ゆうれい》のように奇怪《きつかい》な姿をあらわしたのだ。慶子の死体が発見された河辺鋭一の家にふたたび……  鋭一の帰りは、毎夜|遅《おそ》かった。いつもなら妻の佳枝はひとりでラジオでも聞きながら、裁縫《さいほう》などして、夫の帰りを待っているのだが、さすがああした事件のあった直後だけに、一人では恐《こわ》さと淋《さび》しさにたえかねたのか、近所の子供のない人妻を呼びこんで、ひまつぶしのようなおしゃべりをしていた。 「ほんとうに、奥《おく》さまもお大変でございますねえ。あんな死体など持ちこまれて、びっくりなすったでございましょう?」 「ええ、本当にとんだ目にあいましたわ。そりゃあ、主人の恋人《こいびと》や何かが、主人にすてられて、この家の庭で首でもくくったというのなら、まだわけもわからないじゃあございませんけど、何しろ、主人にもわたくしにも、赤の他人——一度もお目にかかったことなんかないお方でございましょう。びっくりしたと申したらいいか、迷惑《めいわく》だと申したらいいか、何と申したらいいか、わけもわかりませんのよ」 「本当にお大変でございましたこと……それは泥棒《どろぼう》にも三|分《ぶ》の理屈《りくつ》と申しますから、人殺しにだって、二|分《ぶ》ぐらいの理屈はないでもないでしょうけれど、それは殺される、当の相手にむかってのことですわね。何の関係もない、お宅にまで、そんな御迷惑をおかけすることはございませんわね」  一応は同情しているような言葉だが、その裏をかえすと、こういう意味にもとれる。  この殺された女が、この家に何の関係もなかったら、こうして死体を送りこまれることなどなかったろう。犯人の方か、被害者《ひがいしや》の方かに、まだ警察さえ探り出してもいない秘密の関係がなければこんなことにもならなかっただろうと、暗黙《あんもく》のうちに物語っているような表情だった。 「奥さま、あれは何でしょう?」  突然《とつぜん》、相手は顔色をかえて、部屋中を見まわした。佳枝もぎくりとしたように、あたりを見まわした。 「何ですの? 何か?」 「お勝手の方で、何か、かたりと物音がしたようですわ。鼠《ねずみ》でしょうか?」  鼠か、泥棒猫《どろぼうねこ》か、それとも野良犬《のらいぬ》か、勝手口《かつてぐち》の外なり中なりで、ことことと音をたてるぐらい、どこの家にもある話だが、二人ともおびえてしまって口もきけない。  いや、その音は、たしかに勝手口の戸をことことたたいている音だった。 「誰か来たのかしら?」 「いっしょに行って下さいません? わたくし一人じゃこわくってたまらないわ」  二人は顔を見あわせながら、まるで二人三脚《ににんさんきやく》のように肩《かた》をくっつけあって、勝手口の方へ出て行った。  そして、台所の電気のスイッチをひねった時、ガラス戸の上に描《えが》かれた、奇妙《きみよう》な形のものが、一瞬《いつしゆん》に、佳枝の眼《め》にとびこんで来た。  それは手形——女の、血でおされた手形だったのだ。しかも、そのぶきみなほどおぞましい特長は——指が足りない……四本の指しか残っていない手形だった。  きゃーっと鋭《するど》い悲鳴をあげて、佳枝はその場に気を失って倒《たお》れてしまった。お客の方がおろおろして、 「奥《おく》さま、奥さま、しっかりなさいまし……何がいったい……」  といいかけて、自分も初めて、この手形に気がついたのか、きゃーっと精神異常者のようにわめきながら、玄関から外へとび出して行った。  何しろ、ああした事件の起こった直後だから、近所の人々も気が立って、神経衰弱《しんけいすいじやく》のようになっている。この二人の叫《さけ》び声を聞きつけて、どやどやと、この家へかけつけて来たが、誰もこの血染《ちぞ》めの手形には眼《め》を見はった。 「なるほど、これは、外からおしたんだね。四本指の女の幽霊《ゆうれい》が、またやって来たのかな」 「血がこぼれている。庭にも……」  一同は、懐中電燈《かいちゆうでんとう》を照らして、庭を探しまわった。その血痕《けつこん》は、勝手口から一直線に、裏木戸《うらきど》の方へつづいている……ところどころのやわらかい土の上には女の靴《くつ》のあとらしい足跡《あしあと》まで、はっきりと刻みこまれているのだった。  いや、そればかりではなかった。近所のあるサラリーマンがこの幽霊のような女を目撃《もくげき》しているという事実も間もなくわかったのだ。会社の帰りぎわに、彼はこの裏通りを通りかかって、裏木戸から出て来る、幽霊のような謎《なぞ》の女に気がついたのだ。指の数までは、もちろんはっきりわからなかったが、その左手は、何かにべっとり濡《ぬ》れていたのだ。  はっと思って、声をかけると、その女はたちまち、飛ぶように逃《に》げ出した。待て! と叫《さけ》んで、その跡《あと》を追ったが、相手はランニングの選手のような速さだったし、夜のこと、それもこうしたごたごたとした屋敷町なので、たちまちその姿を見失ってしまったということだった。  最初の事件から、旬日《じゆんじつ》も出ないうちに、またしても起こったこの怪事件《かいじけん》に、この近所の人々は、ただ恐《おそ》れ戦《おのの》くばかりであった。   幽霊《ゆうれい》街《まち》を行く 「幽霊だってずいぶんくたびれるでしょうね。そうして夜な夜な出ずっぱりの大活躍《だいかつやく》じゃ」  その翌日、事務所へ訪ねて来た松山警部の話を聞いて、竜子は悪戯《いたずら》っ子のような笑いを浮《う》かべた。 「うん、なかなかしぶとい相手だね。こうして事件の関係者のところを一|軒《けん》一軒回ってるんだから、僕のところへもいずれは顔を出すだろう。そうすれば、捕《つか》まえて化《ば》けの皮をはいでやるんだが……」 「幽霊だって利口だから、まさか警視庁の調べ室にはあらわれないわよ。捕まって、留置所へでもぶちこまれてからならともかく……ところで今日は何の御用」 「うん、これは君にも知らせておいた方がいいと思うんだが、殺された弓田慶子が、麻薬《まやく》の中毒|患者《かんじや》だということがわかったんだ」 「まあ……」  竜子も思わず眉《まゆ》をひそめて、 「麻薬というと、ペー、それともヘロ?」 「ヘロインらしい。煙草《たばこ》をほぐして、白い粉をまぜてまき直して吸っているのを見たという人間が何人もあらわれたから。それに、知合いの医者にも、ずいぶんモルヒネをうってもらっていたらしいな」 「まだ若いのに、どうしてまた、そんな厄病神《やくびようがみ》にとっつかれたのかしら?」 「亭主《ていしゆ》のせいだね。あの亭主は、軍隊当時にむこうで阿片《あへん》を吸うことをおぼえて、終戦後に、またその癖《くせ》が再発したんだね。何しろ、麻薬中毒の夫婦というやつはたまらないよ。一方が中毒だと、必ず相手にもそれを強《し》いるから……もっとも、このところは夫婦生活の機微《きび》に属するところで、君みたいに孤閨《こけい》を守りつづけている未亡人に、こんな話をしちゃあ悪いな」 「とんでもない。その御遠慮《ごえんりよ》には及《およ》びません」 「まあ、愛情論は別として——とにかく君はこの事件からは、手をひいた方がよかないか。もし、この事件が、麻薬取引か何かにからむ事件だとすると、何しろああした業者には血も涙もありはしないからな。邪魔者《じやまもの》は殺せ——で、君までどこかへ誘《さそ》いこんで、血祭りにあげないともかぎらない。君の骨を拾ってやるなんていうのはとんだ迷惑《めいわく》だ」 「そんなこと、お願いしないわ。わたしは、生きてるうちはともかく、死んでからまで幽霊《ゆうれい》になって、あなたを悩《なや》まそうとは思わないわよ」  竜子は、笑って警部を送り出すと、それからずっと、事務室で書類の整理を続けていた。そして、助手の村山恭子《むらやまきようこ》といっしょに、事務所を出たのは、もう八時すぎになっていた。 「あっ!」  事務所を出るなり、恭子はひくく声をあげ、表戸に鍵《かぎ》をかけていた竜子の腕《うで》にすがりついて来た。 「村山さん、いったいどうしたの?」 「先生、あの、あの女の人が!」  恭子の指さす方を見て、竜子もはっと眼《め》を見はった。一丁ほど先の街燈《がいとう》に照らされて、若い女が立っている。白い包帯《ほうたい》をした片手をあげて、二人をまねくようにすると、たちまちその姿は、近くの闇《やみ》に呑《の》まれてしまった。 「先生、あの女です。いつか指をとどけて来たあの幽霊は……」 「あれが?」  危険も何も忘れたように、竜子は地を蹴《け》ってかけ出した。そして、いまの女が立っていた街燈の下まで来ると、ひざまずいて、そこに落ちていた、小さな箱《はこ》を拾いあげた。 「先生、それは写真のフィルムですのね?」 「そうかしら? もう一度帰って調べて見るわ……」  二人は、もう一度事務所へひっかえすと、いま拾って来た三十五ミリのフィルムの箱の蓋《ふた》を開けた。中には金属製の缶《かん》、そしてその中のパトローネを暗室の中で開けて見て、竜子は緊張《きんちよう》した顔でもどって来た。 「やっぱり、わたしの思った通り……中にはフィルムは入っていなかったわ」 「それじゃあ、何が?」 「この粉が……ヘロインよ」  さらさらと、パトローネから白い粉末を紙の上にこぼしながら、竜子は眉をひそめて、 「いつだったか、わたしがいってたことがあるでしょう。外国から入って来る写真のフィルムには、よくこんなのがまじっていると……フィルムなら、税関でも開けては見ないし、一本ずつではわずかの量だけれども、数がふえると、相当な量になって来るのよ」 「でも、先生……」 「なぜ、あの幽霊《ゆうれい》が、わざとこんなものを落しておいたというの? この間、指をとどけたのと同じ心理よ。人間だって、幽霊だってこんな悪戯《いたずら》をくりかえしているうちに段々深みに入って、ぬきさしならない泥沼《どろぬま》に呑《の》みこまれてしまうものなのね……」  恭子を後に残して、ふたたび事務所を出て来た竜子は、またしても、あの街燈《がいとう》の下にたたずんでいる、女の姿を認めてはっと足をとめた。  今度は走り出そうともせず、足音をひそめながら、じわじわと相手に迫っていったが、相手は竜子をさそうように、暗闇《くらやみ》へ暗闇へと動いて、ある一定の距離《きより》の近くにはよせつけようともしない。  暗い屋敷町《やしきまち》を尾行《びこう》すること三十分——女の姿は、一|軒《けん》のビルディングのかげに、ぱっと消えた。ビルディングといっても、三階建の焼けビルを改造したらしいちゃちなものだが、竜子はさそいの隙《すき》につりこまれることを警戒してか、道をへだてた建物のかげに身をひそめたまま、そちらへは近づこうともしなかった。  パッと三階の窓に燈がともった。黄色い電燈に照らし出されて、窓《まど》のカーテンの上に黒く女の影《かげ》がうつった。 「非常階段か何かあるのかしら?」  竜子はひくい声でつぶやくと、飛ぶように道を横ぎり、建物にぴたりと身をよせながら裏手の方へ廻《まわ》った。  裏口の扉《とびら》は、わずかに開いていた。  竜子はポケットから、愛用の特殊《とくしゆ》カメラをとり出して、ぐっと台座を握りしめた。一見|拳銃《けんじゆう》と見えるこのカメラ——十六ミリのフィルムを入れ、引金をひくとシャッターが切れ、夜はマグネシウムの入った閃光弾《せんこうだん》も発射出来るこのカメラは、今までも、どれだけ役に立ったか知れない。  扉《とびら》を開けると、すぐ眼《め》の前には、コンクリートの階段が、上にのびている。一歩、一歩と注意しながら、竜子は二階へ、そして三階へその階段を上って行った。  電燈のともっている部屋は一部屋しかない。その部屋の扉をぐっとおしあけると、竜子は扉のそばの壁《かべ》にはりつき、相手の出ようを待った。  応答はない。中には人の気配もしないのだ。意を決して、竜子は中をのぞきこんだ……窓ぎわには、たしかに女が立っている。むこうをむいて、微動《びどう》もせず…… 「あなた! あなたはどうして、こんな真似《まね》をするの? 幽霊のまねをして、いったいどんな?」  といいかけて、竜子ははっと固唾《かたず》をのんだ。相手の様子に何となく人間ばなれのした、ただならぬものを感じたのだ。  警戒《けいかい》も忘れて、そのそばへ走りよると、竜子は、相手の肩《かた》に手をかけ、思わずあっと叫《さけ》んだ。  人形……等身大の人形に、女の洋服を着せかけて、誰かがここへ立たせておいたのだ。  と思う間もなく、竜子は人形から手をはなしてぱっと飛びのいた。  その瞬間《しゆんかん》、ガラスが微塵《みじん》にくだかれ、人形もそのはずみで横にどうと倒《たお》れた。  誰かが、外から窓にうつった影《かげ》をねらって必殺の一撃《いちげき》をあびせて来たのだ。 「やったね……」  床《ゆか》の上に身を伏《ふ》せながら、竜子はうめき、そして四方の物音に耳をすました。  ことこと、ことこととかすかな音が聞こえている。階段を、誰かが靴音《くつおと》をしのばせながらおりて行く——その足音に違《ちが》いない。  床をはい、開けっぱなしの扉《とびら》から、廊下《ろうか》に誰もいないことを見さだめた上で、竜子はようやく立ち上がった。この部屋はただの空室《あきしつ》、この人形のほかには、何も注意をひくものもなかったのだ。  コンクリートの階段を下へ、そして出口から外へ出て見ても、そこにも人の影はなかった。ただ、女持ちのシガレット・ケースがおちていたばかり。  そのケースを拾おうとして身をかがめた時に竜子は背中に鈍《にぶ》い圧迫《あつぱく》を感じた。 「ピストルを捨てて手をあげろ」  ふりかえる余裕《よゆう》も何もなかったのだ。危険を危険とも思わない、この女探偵《おんなたんてい》も、今度は参りきったように、特殊《とくしゆ》カメラを落して手をあげると、 「お手あげね。わたしも、今度こそ年貢《ねんぐ》のおさめ時かしら?」  とつぶやいた。 「真直《まつす》ぐ前へ!」  眼《め》の前には、いつの間にやって来たのか、一台の自動車が停《とま》っている……竜子が、その中へおしこまれると、車はすぐに動き出した。そばでは男が、ピストルを横腹につきつけたまま坐《すわ》っている……そしてハンドルを握《にぎ》っているのは、たしかに女——あの幽霊《ゆうれい》と思われた女なのだった。   死地に入る  何といっても、自分から好んでこういう職業にとびこんだことだから、竜子は最初からいつ何時《なんどき》でも、死に直面する覚悟《かくご》はきめていた。また実際問題としても、何度か九死《きゆうし》に一生を得《え》るような危地に追いこまれたおぼえはあるが、今度という今度は、竜子としても、いささか深入りしすぎたという後悔《こうかい》をおさえることは出来なかった。 「わたしをどこへつれて行くの?」  相手の気をひいて見るように、何気ない調子でたずねたが、そばから拳銃《けんじゆう》をつきつけている男は、微動《びどう》もせず、 「今にわかる」  と答えたきりだった。  声をあげて救いを求めるか、疾走《しつそう》中の車から飛びおりるか——という非常手段も考えないではなかったが、最初あの場で一撃《いちげき》に自分を倒《たお》そうとしなかったところに、こうして拳銃をつきつけて、自分をどこかへつれて行こうとするところに、竜子は溺《おぼ》れるものがワラにでもすがろうとするような一筋の望みを感じていた。  車はたくみに、交番の前をさけながら、世田谷の迷路のような小路をたどっている。このあたりは、自分で小型車の運転ぐらい出来る竜子にも、夜は方角に迷ったり、一方交通の蟻地獄《ありじごく》に悩《なや》まされたりした曰《いわ》くつきの場所だが、それにしても、自分に眼《め》かくしもせずにそのままつれて行くとは、さては生かしては返さぬつもりかと、恐怖《きようふ》を知らない竜子でも、心臓が冷たい汗《あせ》に濡《ぬ》れるような気がしてならなかった。  そのうちに、車はある一|軒《けん》の洋館の前にとまった。周囲は畑と林と赤土の丘《おか》で、たとえ拳銃《けんじゆう》を乱射したとしても、その物音は人家まで聞こえるかどうかはわからない。 「入れ」  竜子はだまって、車をおりると、その家の敷居《しきい》をまたいだ。埃《ほこり》っぽい臭《にお》いがぷーんと鼻をついて来るところを見ると、この家は大分長い間|空家《あきや》になっていたのだろう。などと頭を働かせているひまもなく、玄関《げんかん》にあらわれた二人の男が、両方から竜子の手を捕《とら》えて、手錠《てじよう》をかけ、その顔に黒い布で目かくしをしてしまった。  洋服のポケットを探り回って、中の物を全部ぬき出したかと思うと、 「歩け」  唯々諾々《いいだくだく》と、竜子は相手の言葉に従うしか方法がなかった。盲人のように、手をひかれ、廊下《ろうか》からどこかの洋間らしい部屋《へや》に入ると、竜子をつきとばすように、椅子《いす》に腰《こし》かけさせられた。 「川島竜子だな?」  一人の男がたずねている。竜子も、持ち前の負けじ魂《だましい》を爆発《ばくはつ》させて、 「そうよ。誰だと思って、ここまでつれて来たの?」  とはね返した。 「おれが誰か、わかるか?」 「わからないわね。こんな眼《め》かくしをさせられちゃあ……どうせ、ギャングか麻薬《まやく》取引業者の下請《したうけ》か、そんなところでしょう」 「ふン」  相手は嘲《あざ》けるように鼻で笑って、 「いったい、君は何だって、ああして幽霊《ゆうれい》のまねをした?」  竜子は、唇《くちびる》のあたりに不敵の微笑《びしよう》を浮《うか》べ、 「見やぶったの? それを?」 「いうにや及《およ》ぶだ。なるほど、最初あの女、弓田慶子の指を切って、君のところへとどけたのは、こちらの仲間のしたことだ。だが、その後の幽霊は——山名竜造の家を訪ねて、指環《ゆびわ》を落しておいたのも、小玉商事の事務所を訪れたのも、河辺鋭一の家を訪ねて、四本指の血染めの手形《てがた》を窓に残して逃《に》げたのも」 「そうよ。わたしのしたことよ。そうして一|軒《けん》一軒と、この事件の関係者の家を訪問しているうちには、犯人だったら、何か変わった反応を見せて来るかと思ったのよ……身におぼえがあれば、じっとしてもいられないでしょうからね」 「女|賢《さか》しうして牛売りそこなうということもあるが、女|探偵《たんてい》の智恵《ちえ》などは、いい加減底が知れている……小玉商事の隣《となり》の部屋に、洋服を最初からつるしておき、洗面所へとびこんでの早がわり一幕だけはうまかったが、そのほかの芝居《しばい》は全然いただけない」 「じゃあ、あの時、わたしが洗面所の中で、女装《じよそう》からとたんに男に化けて、あの洋服をあっけにとられたような顔で見ていた——ということも知っているのね?」  竜子は唇《くちびる》をかみながら、 「残念ながら、今度の勝負はこちらの負けね。それでわたしをどうするつもり?」  ふふふふふと、相手はぶきみな含《ふく》み笑いとともに、竜子の首に何かをまきつけて来た。明かに針金とわかる、金属的な感覚だった。 「わかるかね? 最初あの指をとどけさせたその意味が……君は物好きで、おっちょこちょいな方だから、ああした不思議な事件をでっちあげて見せれば、必ずさそいのすきにのって、深みに入って来ると思ったんだ。この針金の両方に力を入れさえすれば……」 「川島竜子|探偵《たんてい》ノートも一巻の終りというわけね。いいわよ。お念仏もアーメンも、車の中でさんざんとなえて来たから、今さら遺言《ゆいごん》することもないわ」  相手の態度は、鼠《ねずみ》を鋭《するど》い爪《つめ》で捕えて、前足でなぶっているような感じである……といってただそれだけとも思われない。  こうした死刑《しけい》直前の魂《たましい》を奪われるような瞬間《しゆんかん》にも、竜子はそんな微妙《びみよう》な勝負の気合を感じていた。 「恐《こわ》くないのか? 死にたいのか?」 「そりゃあ、わたしも人なみには命の惜《お》しい方だから、何も好んで死にたくはないわ。でも、そっちで殺すというのなら、俎《まないた》の上にのせられた鯉《こい》みたいなものだもの……泣いたりわめいたりしたって、みっともないでしょう」  相手は、ぐっと強く針金に力を入れて来た。呼吸が出来ないほど強く——これが最期《さいご》か——と思ったとき、今度は急に力をゆるめて、 「どうだ? 三原山《みはらやま》でもどこでも、自殺しようと思ってしそこなったやつは、今度はとたんに死にたくなくなるということだが、地獄《じごく》の入口の感想はどうだ?」 「死にたくない! 生かして! わたしを殺さないで!」  血を吐《は》くような声で竜子は叫《さけ》んだ。相手はまた、ふふふとぶきみな笑いをもらし、 「姫御前《ひめごぜん》、とうとう本音を吐いたな。命を助けてくれというなら、場合によっては、助けてやらないこともない。しかし、それには条件がある」 「どんな条件? 何でもきくわ……」  竜子の声は、わずかのうちに、人が変わったように調子を変えていた。 「ふン、君もどうやら人なみの分別《ふんべつ》が出て来たらしい……やはり、どんなに偉《えら》そうなことをいっていても女は女だ。実は、条件というのは、ほかでもない……最近、警視庁の麻薬《まやく》のとりしまりが巧妙《こうみよう》になって、われわれの方も莫大《ばくだい》な損害をうけて困っている。その情報を手に入れてくれる人間がほしいのだ。これが普通《ふつう》の人間なら、警視庁でも相手にはしないが、君だけの顔と智恵《ちえ》とを持っていれば」 「わたくしに、スパイをしろ——というのね」 「そうだ。われわれとしても考えたのだ。君が警視庁の警部あたりと色事《いろごと》の間違《まちが》いをおこしても、世間じゃあ、亭主《ていしゆ》に別れた三十女には珍《めずら》しくもない話だとしかうけとるまい。その手を使うつもりなら、いくらでも秘密が探れるだろう。われわれの方としても、その裏から裏へとまわって行ける。君は食うには困るまいから、金で誘惑《ゆうわく》は出来ないが、命と色と……それで落ちてもふしぎはない」 「約束《やくそく》するわ。だから、助けて……」  弱々しい竜子の言葉に、相手はうむとうなずいて、 「それでは証拠《しようこ》を見せてもらおう」 「証拠? いったいどんな証拠なの? 小指を切って血判《けつぱん》でもするの?」 「そんな子供だましの誓《ちか》いを誰が本当にするものか!」 「それでは刺青《いれずみ》でもしろというの? 一味《いちみ》の目じるしか何かを?」 「違《ちが》う」  相手はいよいよせきこんで、 「むかし、明治時代に、時の政府を覆《くつが》えそうとした人間がたてた誓いだ。仲間に入るためにはまず、それを裏切るためには自分も命をすてなければ出来ないだけの罪をおかす、その上で……」 「殺人ね? わたしに殺人の罪をおかせというの?」 「その通りだ。人間一人殺せば、君もりっぱな殺人犯人、その証拠《しようこ》はこちらが握《にぎ》っている。こっちを売ったら、そちらもその罪がばれて、無期か死刑《しけい》——ということになったら君も裏切ろうとはしまい」  竜子は五、六分の間、首をたれて考えこんでいた。 「それで、誰を殺せばいいの?」 「それは、こちらがきめておいた。しかし、死刑の執行《しつこう》にはまだ間があるから、一休みしておいたがよかろう」  竜子が無条件降伏をしたと思って安心したのか、その体を椅子《いす》に縄《なわ》でぐるぐる縛《しば》りつけると、人々は部屋《へや》から出て行った。  その人気《ひとけ》がなくなったことを感じたとき、初めて竜子はにたりと自信ありげな微笑をもらした。   竜子の逆襲《ぎやくしゆう》  その家の竜子を縛《しば》りつけて監禁《かんきん》している部屋《へや》とはいくらか離《はな》れた一部屋で、二人の男女が話しあっていた。  河辺鋭一と佳枝の夫婦だった。 「名うての女探偵《おんなたんてい》さんも、今度という今度は音《ね》をあげたらしいわね」 「うむ……命知らずということにはなっているが、やはり人間である以上、誰だって命は惜《お》しいからな。ことに一思いにばっさりやられるならともかくも、ああしてじわじわ、一|寸《すん》だめし五分《ぶ》きざみにいためつけられると、がまんの出来る人間はまずいないのだ」 「でも、これでわたしが、死体の指を切ってもっていったのもむだじゃなかったというわけね」 「うむ、自分の家で殺しておいて、空《から》のトランクだけをはこびこみ、その中に死体をつめこんで、死体ごと運びこまれたように見せるというトリックには、さすがの彼女も気がつかなかったらしいな。やつはただ、盲滅法にこの事件の関係者のところを、君が化けた幽霊《ゆうれい》にまた化けなおして廻《まわ》って歩いていただけさ」 「犬も歩けば棒にあたる——というけれど、女探偵が歩いているうちに、自分の墓石にぶつかってしまったというわけね」  仮面をぬいだ二人の素顔は、悪魔《あくま》のように冷たく恐《おそ》ろしくこわばっていた。松山警部でさえもいくらか疑惑《ぎわく》をいだいていたように、やはり彼等《かれら》の眼《め》に見えぬ裏の職業は、麻薬《まやく》の取引だったのだろう。利潤《りじゆん》の多い、しかも危険なこの商売を続けて行く上で、途中《とちゆう》の邪魔《じやま》となるものは、誰彼《だれかれ》の区別なく、命をうばおうというのだろう。  どこかでがたりと音がした。鼠《ねずみ》がさわいでいるような、かすかな物音だったが、二人は鋭《するど》くその物音を聞きとがめて、 「どうしたんだろう? 何だろう?」  と顔を見あわせた。 「わたしが行って見てくるわ」 「大丈夫《だいじようぶ》か?」 「大丈夫よ。これがあるもの」  黒光りのする拳銃《けんじゆう》を机の上からとりあげて佳枝は部屋《へや》を出て行った。  鋭一は、もとの場所にそのまま坐《すわ》ったきり、だまって煙草《たばこ》を吸いつづけていた。一本、二本、三本と吸殻《すいがら》は三分の二ぐらいの長さを残して、灰皿《はいざら》の中へ投げこまれたが、佳枝は部屋へ帰って来ない。 「どうしたのかな?」  ひとりごとにも、疑惑《ぎわく》と不安の影《かげ》が濃《こ》くただよっている。もう一|挺《ちよう》の拳銃《けんじゆう》をとりあげると、彼は眼《め》を光らせて部屋を出た。  だが、竜子の監禁《かんきん》されている部屋の扉《とびら》を開けたとき、彼は思わずあっと叫《さけ》びをあげた。  椅子《いす》には、たしかに女が縛《しば》りつけられている。だが、その相手は竜子ではなく、妻の佳枝——竜子は、その体をたてにとりながら、拳銃をかまえてそのそばに立っていた。 「貴様は、いったい……」 「動いたら射《う》つよ」  竜子は雌豹《めひよう》のように眼を光らせ、口のあたりにかすかな笑いを浮《う》かべながら、 「わたしのような商売には、縄《なわ》ぬけぐらいは朝飯前の芸当なのよ。普通《ふつう》の手品師に出来るぐらいの手品なら、一つのこらずやれなくっちゃ……」 「うむ……」  石像のようにたたずんだまま、河辺鋭一はかすかな呻《うめ》きをもらしていた。 「今度こそ、勝負はこちらの勝ちと思っていたが……最後の土壇場《どたんば》で、見事にうっちゃりをくわされたか」 「まことにお気の毒だけど、これも勝負のうちだもの。将棋《しようぎ》だって王様の頭に金《きん》をうたれるまでは駒《こま》を投げるなというでしょう」  勝ちほこったような笑いとともに、竜子は、 「ピストルを捨てて、手をお上げ!」  とするどくいった。竜子の背後の窓ガラスが破れて微塵《みじん》にとんだのはその直後——さすがの竜子も、はっとしたようにふりかえろうとしたが、そのほんの一瞬《いつしゆん》の隙《すき》に乗じて河辺鋭一の手の拳銃《けんじゆう》は轟然《ごうぜん》と火を吐《は》いていた。  キャーッという女の悲鳴——そして、竜子の手の拳銃も、間髪《かんはつ》をいれずこの一撃《いちげき》にこたえていた。 「先生……」 「川島君、無事か……」  窓の外から聞こえて来たのは、竜子の助手、村山恭子と松山警部の声だった。恐《おそ》らくは、竜子が二度目に事務所を出てから、恭子はずっとその跡《あと》にくい下がっていたのだろう。そして、こうして危地に陥《おちい》ったことを知り、警部に急報して救いを求めたのだろう。 「大丈夫《だいじようぶ》、かすり傷一つおっていないわ」  片手をおさえながら、よろよろと廊下《ろうか》に消えた河辺鋭一の跡を追おうともせず、竜子は声をはずませて答えた。  二、三人の警官といっしょに、警部は間もなく部屋にとびこんで来た。椅子《いす》に縛《しば》りつけられたまま、右胸のあたりから鮮血《せんけつ》をほとばしらせている佳枝の姿を見つめて、 「やったな? 君か?」 「わたしがやったとしても正当防衛《せいとうぼうえい》だけれど——これはむこうの同志うち、ただ、この椅子に縛りつけた罪までいうのなら、それはわたしが犯人だけれど……」 「犯人の一味《いちみ》だな?」 「そう、最初、わたしの事務所へ指をとどけたのはこの女、今晩やって来たのもこの女、ただ、その間の幽霊《ゆうれい》は、みんなわたしのやったこと……」 「それで、もう一人は?」 「逃《に》げたけど……右手をうちぬいてやったから、あの傷では逃げおおせられないでしょう。血のあとを追って行けば、必ず捕《つか》まると思うわ」  女の手あては一人の警官にまかせて、三人は部屋《へや》をとび出した。裏の林の方で聞こえた銃声《じゆうせい》を追って、三人は数人の警官とともに、一団になってかけ出した。  警察自動車の青白いサーチライトの光が、林の木の間をぬって、その一本の幹《みき》をたてにとってかまえている鋭一の姿を照らし出したと思った一瞬《いつしゆん》、彼はすべてをあきらめたように、拳銃をすて、手をあげながら、 「助けてくれ! うち殺すのだけは待ってくれ! おれはまだ死にたくない!」と臆《おく》したような叫《さけ》びをあげた。  その両脇《りようわき》からとびかかった警官が、彼の両手に手錠《てじよう》をかけ、警部たちの前にひきずって来た。醜《みにく》く歪《ゆが》んだ相手の顔を、警部は苦々しげに見つめ、 「卑怯者《ひきようもの》、ピストルで殺されるだけは助かったが、貴様《きさま》の前には絞首台《こうしゆだい》が待っているのだ。まあ、心臓をうちぬかれるよりは、首をしめられる方が、いくらか楽かも知れないな」  と吐《は》き出すようにつぶやいた。  竜子の捕《とら》われていた部屋へ帰って、警部はくわしく一部始終《いちぶしじゆう》をたずねはじめた。そしてその話が、針金で首をしめられるところまで来たとき、恐《おそ》ろしそうに眉《まゆ》をひそめて、 「もともと、惨酷《ざんこく》な人間には違《ちが》いないが、なるほど凄《すご》いまねをしたものだ。だが、これで今度こそ君もこりたろう。今晩はどうにか助かったけれど、いつでも柳《やなぎ》の下にどじょうがいると思うとわけが違《ちが》うぜ。これにこりたらきれいさっぱり、こんな商売から足を洗うんだな」 「あら、そんなことないわ」  竜子は、今までの興奮もどこかへ吹っとばしてしまったような、朗らかな笑顔を見せ、 「わたしの手相じゃ、六十八まで生きることになってるんだもの。どんなことをしたって助かるだろうとは思っていたわ」 「とんでもない。手相や人相はどうか知れないが、君みたいに危ないまねばかりしていた日には、命がいくつあったって足りるもんか。今度こそ、どんなことが起こったって、おれは助けに来てやらないぞ」 「じゃあ、今度はわたしが命を助けてあげて今夜の借貸を帳消しにするわね。それから、村山さん、どこかに針金があるでしょうから探《さが》してね」 「針金をいったい何にするつもりだ」 「わたしの首をしめそこなった針金だもの、大事にしまっておいてお守《まも》りにするつもりよ。むかしから、死刑《しけい》に使った縄《なわ》の切れっぱしでもお守りにしていると、大変な幸運に恵《めぐ》まれるという話があるでしょう。他人の首をしめた縄《なわ》でさえそうなんだから、自分の首にまきついた針金なら、それよりもずっと御利益《ごりやく》があるはずじゃない?」  恐怖《きようふ》というものを知らないように、竜子はまたしてもきれいな歯なみを見せて笑った。  失われたダイア 「ここだな?」  二階の一六号室の前で立ち止まって、私立探偵《しりつたんてい》・大前田英策《おおまえだえいさく》は、静かに扉《とびら》をノックした。  答えはなかった。 「留守かな? いや、そんなはずはないのだが」  とひとりごとをいいながら、彼は腕時計《うでどけい》をのぞいた。午後七時、たしかに約束《やくそく》の時間なのだ。扉の隙間《すきま》からは黄色い光がもれている。何となくただならない予感もした。  思いきって、彼はノッブに手をかけて、扉をぐっと手前にひいた。  鍵《かぎ》はかかっていなかった。わずか六|畳《じよう》一間のことだから、その視線をさえぎるものは、何もなかった。  英策はあっと声をあげた。畳の上には、わかい女がうつぶせに横たわり、口から、どす黒い液体を吐《は》き出していたのである。  そのまま、部屋《へや》へ飛びこむと、彼は女の額《ひたい》に手をふれて見た。もちろん、完全に息をひきとっていて、医者をよんで来ても、間にあいそうにもない。こういうことにはなれている英策の第六感では、息をひきとってから、約一時間の時間がたっているように思われた。 「しまった。一足おそかったか」  と、自嘲《じちよう》のようにつぶやきながら、英策は女の左腕を肩先《かたさき》近くまでまくりあげて見た。  わきの毛の生えているあたりのハダの上に、小さく、Y・Aと二つの青いローマ字が浮《う》いている。刺青《いれずみ》だった。  大きくため息をついて、英策は階段をおり、管理人を呼び出した。 「二階の一六号室で女が死んでいるよ。多分、毒殺されたのだろうと思うが、一度|死顔《しにがお》をあらためた上で、警察へ知らせてくれたまえ」  管理人も、飛び上がらんばかりに驚いた。早速、英策といっしょに部屋へかけつけると、恐《おそ》る恐る死体の顔をのぞきこんだ。 「この部屋を借りている、松村安子《まつむらやすこ》さんに間違《まちが》いはないね?」 「はい……」 「僕はこういう者だが」  と、英策は名刺《めいし》をとり出して、 「ちょっと聞きたいことがあって、この人をたずねて来たのだ。この人を訪ねて来た人物は、ほかになかったろうか?」 「そういわれれば……」  と、管理人は恐《おそ》ろしそうに身をふるわせ、 「さっき、妙《みよう》な男の方がやって来て、松村さんの部屋《へや》はどこだとたずねていました。スプリングのエリをぐっと立て、はでなマフラーを首にまき、帽子《ぼうし》を深くかぶって、黒眼鏡《くろめがね》などかけた、いかにもやくざっぽい男で」 「うむ、それが犯人だったかも知れないな。とりあえず警察へ知らせてくれ」  といって、管理人を追いはらうと、英策はゆっくり部屋を見まわした。畳《たたみ》の上に、きらりと光るものがあった。そっと拾い上げて見ると、それは指環《ゆびわ》の爪《つめ》からはなれたらしい、一カラットぐらいのダイアであった。  大前田英策は眼《め》を閉じて、自分をこの現場へよびよせた運命の不思議さに驚《おどろ》いていた。  それは、赤木雄造《あかぎゆうぞう》という男の依頼《いらい》によるものだった。  今から二十年前、陸軍の中野《なかの》学校でスパイとしての特殊《とくしゆ》教育をうけた彼は、いわゆる日本の国策《こくさく》に疑問をいだき、香港《ホンコン》から任務をすてて脱走《だつそう》したのだ。そして、中国人に化けて米国にわたり、莫大《ばくだい》な財産をきずきあげて、最近日本へ帰って来たのだ。  ただ、彼の心にかかっているものは、その時、故国《ここく》に残しておいた、妻と安子という娘《むすめ》のことだった。もちろん、戦争中には、叛逆者《はんぎやくしや》として、連絡《れんらく》通信の道もたたれてしまっていたが、最近日本へ帰って来た彼は、英策にその二人の捜索《そうさく》を依頼した。 「むごいこととは思いましたが、私は二人と別れる時、娘の左のわきの下に、Y・Aと刺青《いれずみ》をしておきました。それが目じるしだったのです。こういうことになりはしないかと思いまして……」  と、彼は涙《なみだ》ながらにいったものだった。  苦心惨憺《くしんさんたん》、英策はどうにか、その娘を探し出した。そのいきさつは、長くなるから、ここでは省略するが、母に死なれ、小さな商店の女事務員などをしていた安子を探し出して来た時の、雄造の喜び方といったらなかった。刺青の跡《あと》は、手術してとったということだったが、そういうことは、雄造にとってはどうでもよかったのである。  安子は、雄造のところにひきとられ、シンデレラ姫《ひめ》のように幸福な生活に入ったが、昨日、雄造はまた英策をよびよせて、奇妙《きみよう》なことをうちあけた。  この被害者《ひがいしや》、松村安子から手紙がとどいて「自分こそ、あなたの娘だ。その証拠《しようこ》には、Y・Aの刺青もちゃんと残っている。ぜひ、あって話を聞いてほしい」  と訴《うつた》えて来たというのである。  再調査を依頼《いらい》された英策はあわててしまった。この女は、新宿の「ナポリ」というキャバレーにつとめていて、阿部勇吉《あべゆうきち》というやくざの情夫まで持っているということをたしかめてから、偽者《にせもの》の化けの皮をはいでやろうという勢いで、雄造にかわって、指定の時刻に、指定の場所、このアパートの一室へのりこんで来たのだ。それを、こうして、先手をうたれたのだから、すっかりあわててしまったのも無理はないことだった。だが、彼は、警察官が到着《とうちやく》するまでには、完全におちつきをとりもどしていた。  あのダイアも、ライターの中にかくしてしまい、なぜこの女のところを訪ねて来たかという理由も、ほかのことにかこつけて、はぐらかしてしまった。  警察では、べつに英策の言葉にも不審《ふしん》を起こさなかった。Y・Aという刺青《いれずみ》も情夫、阿部勇吉のイニシアルを、愛情のしるしに彫《ほ》ったものと解釈したらしい。  それからすぐ英策は赤木家へ向かった。 「主人はいま、ちょっと工合《ぐあい》が悪くて休んでおりますが、何か?」  と応接室へ出て来たのは、雄造が日本へ帰って来てから結婚《けつこん》した妻の由子《よしこ》だった。雄造はもうこどもは出来ないと医者から宣告《せんこく》されている体だし、安子はこの二人の養女ということになっている。 「奥《おく》さん、このダイアには見おぼえがありませんか?」  と英策は、現場から拾って来たダイアを見せた。由子は不思議そうに首をかしげて、 「たしか、安子さんがいつもはめている指輪のダイアじゃないかと思いますけれど、どこでお拾いになりましたの?」 「これが殺人の現場から発見されたのです」 「殺人?」  その時、カゼでもひいているような格好で部屋《へや》へ入って来た雄造は、思わず声をあげた。 「そうです。御依頼《ごいらい》通りに、七時に松村安子さんのアパートへたずねて行ったんですが、その一時間ほど前に、妙《みよう》な男がたずねて来て、毒殺して逃《に》げ出したようなのです。どうして飲ませたかはわかりませんが、青酸の臭《にお》いがしました」 「青酸カリ?」  雄造も、由子も色をかえて、顔を見あわせていた。 「さあ、青酸化合物には違《ちが》いありますまいが、正確なところはわかりません。ところが、現場に落ちていたダイアが、こちらのお嬢《じよう》さんの指輪からぬけたものではないかと思われるものですから」  雄造は、すぐにベルをおして、お手伝いに安子を呼んで来るようにいいつけた。  どうしたことか、部屋《へや》に入って来た安子は真青《まつさお》だった。 「お嬢さん、どうかなさったのですか?」 「ええ、今までデパートへ行っていたのですけれど、どこかでカゼをひきこんで来たのかも知れません」 「あなたは、若いのに弱いわねえ。わたしも今日は一日、外を歩いて来たんだけれど、この通りピンピンしているわ」  と由子は、意味ありげに笑った。 「お嬢さん、これはあなたの指輪の石じゃありませんか?」  と、英策がもう一度、あのダイアをつきつけて見せると、安子は眼《め》を見はった。 「まあ、どこにありましたの? 一昨日の晩までは、たしかについていたんですけれど、昨日から見えなくなって……心配して、探しまわっていたところですわ」 「それをどうしていわなかった?」  雄造は眼を怒《いか》らせた。 「だって、お父様が心配なさるといけないと思ったものですから」  英策はすっくと立ち上がって、 「みなさん、これからいっしょに、警察までいらっしゃってはいただけませんか。どちらのお方が本物のお嬢さんか、それをたしかめなければなりますまい」  捜査本部にあてられている警察署へは、もう阿部勇吉が連行されて来ていた。  係の警部と英策とは、かねて顔見知りの間だったから、何の遠慮もなく、事情を話しあったが、警部はたちまち眼《め》を光らせて、 「なるほど、そういうわけだったのか? それでは、殺された女がほんとうの娘《むすめ》で、家へ入りこんだ娘の方が、女天一坊《おんなてんいちぼう》だったかも知れないな。自分の素姓《すじよう》がばれそうになったために、先手を打って」 「そうかも知れない。ただ、阿部勇吉のほうは、いったい何といっている?」 「自分がやったのではないの一点ばりだ。ところが、管理人に面通しをさせたら、被害者《ひがいしや》の部屋《へや》をたずねたのは彼らしいといっている。自分の情婦の部屋を知らないバカもあるまいが、それもわざと、ほかの人物が彼に化けて、現場へ近づいたと思わせるためのお芝居《しばい》かも知れないさ」 「アリバイは?」 「やくざ仲間が証人では、アリバイなどは信用出来ないよ」 「なるほどな。ただ、問題はダイアだが、君に一つの提案をしようか?」 「事件を解決してくれそうな提案なら、どんなものでも歓迎《かんげい》だな」 「それでは、彼を赤木家の人たちの待っている部屋《へや》へつれて来てくれたまえ。恐《おそ》らく、事件は、それで一挙に解決だよ」  警部は半信半疑の表情だったが、英策の言葉にも一理あるとでも思ったのか、間もなく控室《ひかえしつ》へ、阿部勇吉をつれて入って来た。 「君、ここにおいでの三人のうち、誰か知っている人はないかね?」  と英策がたずねると、勇吉はやけくそのように笑って、 「なるほど、こっちにおいでになるのがお嬢《じよう》さんですね。あれは三、四日前でしたかな。死んだ彼女と、ある場所で立ち話しておられるところを目撃《もくげき》しましたよ」  と思いがけないことをいい出した。 「ウソです! それは」  安子は真青《まつさお》になっていた。 「三、四日前には、わたしは一日家にいて——」 「それとも五、六日前でしたかな? とにかく、こっちの眼《め》には狂《くる》いがありませんな」  阿部勇吉はにたにたしていた。 「それで、君はこの奥《おく》さんの方には、あったことがないのかね?」  英策がたずねると、彼は首をふって、 「こっちが奥さんなのですか。初めてお目にかかりますが、どうか今後ともよろしく」  とていねいにあいさつした。  由子はつんと横をむいてすましていた。こういう男とは、口をきくのも汚《けが》らわしいというような表情だった。  英策は大きくうなずいて、 「なるほど、そうか。そうだったのか。やっぱり僕の思った通り、犯人はいま、この部屋《へや》の中にいるんだね」   解答篇 犯人はだれだ!? 「その犯人は誰なんだ?」  警部の言葉と同時に、人々はじっと英策の顔を見つめたが、彼はゆっくり口を開いて、 「やっぱり殺された女の方は偽者《にせもの》だよ。一目見たときわかったが、熟練した医者なら、あの刺青《いれずみ》が二十年近く前のものか、最近のものかは一目で見やぶれるだろう。本物のお嬢《じよう》さんなら、何も偽者を殺す必要はない。だから、お嬢さんは第一に容疑者《ようぎしや》の中から省かれる」 「では?」 「阿部君、君の今のセリフの中には、聞きずてならないところがあったね。今後ともよろしく——とはどういう意味だ?」 「それは、誰でもおきまりのあいさつで」 「そうかな? 僕は、これからちょくちょくユスリに行くけれど、その時はよろしく金を出してくれ——という意味かと思ったが」  見事に図星《ずぽし》を射ぬかれたらしく、阿部勇吉は顔色をかえてだまりこんでしまった。  英策は、今度は由子の方へ開き直って、 「あなたですね。この人を殺した犯人は」 「何を、馬鹿《ばか》げたことばかり……どうして、わたくしが縁《えん》もゆかりもない、つまらない女を殺したりしなければならないんですの?」  由子は、どこ吹く風というように、平然と答えた。 「つまらん女——といえばいえるかも知れないけれど、使い方一つによっては、結構役にも立ったでしょうな。まず第一に、本物のお嬢《じよう》さんにご主人の疑惑《ぎわく》を呼び起こさせる。あわよくば、本物のかわりに偽物《にせもの》を家へひきずりこむことも出来ないではないでしょう。そこで、赤木さんがぽっくり死んだとしても、その罪をうまくそっちへなすりつけられるかも知れない」 「…………」 「初めはそういう予定だったが、次第に女が本性《ほんしよう》をあらわし始めたので心配になって来て——いっそこの女を殺して、その嫌疑《けんぎ》を本物のお嬢さんになすりつけた方が早いかと思ったのでしょうな。その証拠《しようこ》には」 「どんな証拠があるというの?」 「突発《とつぱつ》的の激情《げきじよう》からの犯行だったらともかく、青酸化合物などを使って、人を毒殺しようと考えるほどの人間は、まず冷酷《れいこく》無情な性格《せいかく》、それも計画的な犯行と見なければならないでしょう。それだったなら、部屋《へや》を出るとき、何か手おちはないだろうかと、一度後をふり返って見るはずでしょうな」 「それが?」 「あの部屋の電気は消えていなかったし、畳《たたみ》の上に落ちていたダイアは一目で気がつくぐらい、まばゆい光を放っていましたからね。もしも、過失で落したのなら、それが眼《め》に入らないわけはない。それなのに、それを残して立ち去ったというのは、故意《こい》といわれてもしかたがない。お嬢さんのダイアをごまかす可能性《かのうせい》のあるのはあなた一人ですよ」  英策の言葉が終ったとき、由子のクチビルの端《はし》からは、たらたらと生血がしたたり落ちた。  夜の野獣《やじゆう》     一  ある秋の夜、大前田英策《おおまえだえいさく》は暗い屋敷町《やしきまち》を歩いていた。  本職の私立探偵《しりつたんてい》として、ある重大な調査をすませての帰り道だったが、仕事の性質上、車も使えなかったので、近くの電車の駅まで歩いて帰ろうと思っていたのである。  ところが、どうしたことか駅はなかなか見つからなかった。  こういう仕事をしていると、いわゆる土地カンは鋭《するど》くなる。ほとんど知らないところへ行っても、地図にもたよらず、目的地にたどりつけるぐらい、感覚は鍛《きた》えあげているのだが、この晩だけは、えらく調子が悪かった。  世田谷《せたがや》辺りには、こういう迷路のような場所も少なくはない。その一つに迷いこんでしまって、ぐるぐるまわりをしているのだろうと思いながら、英策はいったん立ちどまり、煙草《たばこ》に火をつけて、あたりを見まわした。  百メートルほどむこうに、交番らしい赤い灯《ひ》が見《み》えた。こうなれば、節《せつ》を屈《くつ》するほかはないと英策も腹をきめた。  しかし、英策がちょうどその前までやって来たときだった。後ろから彼を追いぬいてこの交番へかけこんで行った男がある。  三十五、六の男だった。どこかのサラリーマンらしい身なりだったが、そこにいた巡査《じゆんさ》をつかまえて、彼のはなった第一声は、さすがの英策をも立ちすくませた。 「おまわりさん! 私は家内《かない》を殺して来ました!」  通りがかりの傍観者《ぼうかんしや》にすぎない英策でさえも、はっとおどろいたくらいだった。専門の警察官だったら、眼《め》の色を変えて飛び上がるだろうと思われるのに、彼は椅子《いす》から立ち上がりもせず、大きな口を開けて笑った。 「はっはっは、はっはっは」  英策にもわけがわからなかった。交番の外の闇《やみ》にたたずんで、聞き耳を立てていると、警官は、殺人という大罪をてんで問題にしていないように、 「はっはっは、またやったのかね。君なら、もうそろそろやり出すころだと思っていたが、今度は少し殺人の趣向《しゆこう》を変えて来たのかね」  などと、とんでもないことをいい出した。 「おまわりさん。本当です。今度は……短刀で、ぐさりと心臓を一つきです」 「はっはっは、短刀でね、本当にね。はっはっは、だめだよ。君、そんなことをいって来たのは、もう三十回目ぐらいだろう。本当だったら、奥《おく》さんだって三十回ぐらい死んでいるし、君だって、五回や六回は死刑《しけい》になっているとも……」  意を決して、英策は交番の中へ一歩ふみこんだ。 「いまそこで、立ち聞きするつもりもなく聞いてたんですが、いったいどうしたというんです」  警官はちょっと眼《め》を怒《いか》らせて、その男のほうを見つめると、 「それ、見たまえ。僕はもうなれっこだからおどろかないが、こっちのお方はびっくりして、眼をまるくしておられるだろう。もう、いいかげん、人さわがせなまねはやめてもらおう」  というと、今度は英策のほうにむかって、 「いや、こちらの先生はたいへんな酒乱なんです……といってべつに酔《よ》って乱暴をしたり、人殺しをしたりするわけじゃないんで、ただ、自分が人殺しをしてしまったような幻想《げんそう》におそわれるんですな」 「なるほど」  英策にも、やっと事の筋道は理解できた。 「そのたびに、こうして警察へ自首して出るんですよ。それは最初は、われわれも緊張《きんちよう》しました。次の五、六度はどなりつけ、殺されたはずの奥さんを呼び出して、医者に相談するようにすすめましたが、もうこのごろでは、笑って相手にしないというわけです……精神病の一種でしょうが、しらふになると、ふつうの人間とぜんぜんかわったところもなし、しかたがないのでほっといています。なにしろ精神科の病院は、数がないので、この程度の病人まで、一々入院させていた日には、ベッドが足りないというわけですな。なに、酔いがさめたら、あわてて、奥さんの死体のそばへ帰って行くでしょう。ちっとも御心配はいりませんよ。ところで何か御用ですか」  酔っぱらいの殺人|妄想狂《もうそうきよう》にかかわっていても、いまさらしかたがないと思ったのだろう。警官はてきぱきと、事務的な話にかえった。  駅への道を教えてもらって、英策はすぐ交番を出たが、好奇心《こうきしん》なら人の十倍ぐらい持ちあわせている彼は、なにかこの男《おとこ》に興味を感じていた。  彼は、交番から小半丁《こはんちよう》ほど行ったところの電柱の陰に身をひそめ、この男の出て来るのを待った。  たしかに、泥酔《でいすい》の一歩手前まで行っていることは、交番の中でもわかった。吐《は》き出す息は、腐《くさ》った柿《かき》のようにくさいし、顔も世界中の酒を飲みつくしたように真赤《まつか》だった。交番から出て来たときの足どりも、一度に酒がまわったのか、ふらふらして完全な千鳥足《ちどりあし》である。  しかし、酒豪《しゆごう》という点では人後《じんご》におちない自信を持っている英策は、酔《よ》っぱらいの帰巣本能《きそうほんのう》というものを信じていた。酒のみというものは、これで歩けるのかと思われる状態でも、ふしぎに家へは帰って行く。途中《とちゆう》の記憶《きおく》はいっさいなくなっていても、その道だけは本能的に誤らないのだ。  この男は、ふらふらしながら、英策の前を通りすぎた。英策はだまって、その十メートルぐらい後から、尾行《びこう》していった。  酔《よ》っぱらいの尾行というものは苦労する。相手に気づかれる恐《おそ》れはまずないが、何といってもしんきくさいのだ。  四、五|丁《ちよう》行ったところでは、英策は自分の好奇心《こうきしん》を呪《のろ》いたくなった。しかし、男はここでよろよろよろめき、道の上にばったりのびてしまった。  のりかかった舟《ふね》で、英策もそのまま見すててはおけなかった。 「君、君、しっかりしたまえ」  と、体をゆすぶって声をかけると、この男はまだ眼《め》を半分閉じたまま、 「人殺し……殺人犯人だ。おれは……」  と譫言《うわごと》のような、きまり文句《もんく》をくり返す。 「わかった。わかった。それではこれから、死体の実地検証に行こうじゃないか」 「刑事《けいじ》か。君は……よし、それじゃあひとつ君に手柄《てがら》を立てさせてやろう」  男は英策の肩《かた》にすがって立ち上がった。合気道《あいきどう》はじめ、いろいろの武術で鍛《きた》えあげた英策でも、やりきれないほどの重さだったが、幸いこの二人四脚は、一丁ほどで終りになった。 「ここだ……殺人の現場は」  といって、男は門の戸を開けた。二十|坪《つぼ》ぐらいの平屋《ひらや》だった。家は古いが庭は広い。ざっと百坪ぐらいあるだろう。  男は、戸にしがみつくようにして、玄関《げんかん》を開けた。 「さあ、死体はたしかその辺にある。あらためてもらおうじゃないか」  と、いったきり、たたきの土間《どま》に、べったり坐《すわ》りこんでしまった。  英策も溜息《ためいき》をついていた。 「ごめん下さい。ごめん下さい……」  と、奥へむかって声をかけたが返事はなかった。 「おれが殺してしまったんだ。死体が口をきけるわけはないじゃないか」  男はまだ、ぶつぶつしゃべり続けている。そのとき、英策はふしぎな胸さわぎを感じはじめた。  彼は靴《くつ》をぬいで、一足中へふみこんだ。玄関の敷台《しきだい》の上は三|畳《じよう》、そして左手は八畳の日本間になっている。  その間の襖《ふすま》を開けたとき、英策はあっと叫《さけ》んだ。その部屋《へや》には、女が一人|倒《たお》れている。  英策はそばに近づいて、女の顔をのぞきこんだ。年は二十三、四だろう。後頭部には鈍器《どんき》でたたきのめされたような傷と出血があり、首には紫色《むらさきいろ》の細紐《ほそひも》が蛇《へび》のようにまきついている……死体が完全に冷たくなっていないところを見《み》ると、まだそれほど、時間は経過していないのだろう。  さすがの英策も呆然《ぼうぜん》とした。嘘《うそ》から出たまこと——という諺《ことわざ》もあるが、まさかこの男を送って来て、三十ぺん目に、ほんとうの死体にぶつかるとは思ってもいなかったのだ。  玄関《げんかん》のところまでひっ返すと、男は土間《どま》の壁《かべ》にもたれて、ぐーぐーいびきをかいていた。 「この男が、まさか……」  とひとりごとをいいながら、英策はそのまま外へ出た。  交番までは住宅街の連続だったから、商店もなく、公衆電話のボックスもない。英策はさっきの交番までひっ返すしか手がなかった。交番へ入ると、黒い大きな帳面をくっていたさっきの警官が、びっくりしたように眼《め》をあげた。 「おまわりさん、殺人です」 「どこで?」 「さっき、ここで人殺しとわめいていたあの男の家です」 「まさか、あなたも殺人|妄想狂《もうそうきよう》にとっつかれたんじゃありますまいな」  英策は、自分の名刺《めいし》を出して相手につきつけた。 「僕は私立探偵《しりつたんてい》、大前田英策。先祖の大前田|英五郎《えいごろう》の名前にかけて、ほんとうに死体は見て来たと誓《ちか》いますよ。二十九回は妄想の殺人だったとしても、最後の一度は、今度だけは正真正銘《しようしんしようめい》の殺人です……」     二 「まったく、あんたの鼻というのは、どんな風《ふう》になっているんだろう。警察犬というよりは、烏《からす》に近いんじゃないかな」  さっそく、現場へやって来た警視庁|捜査《そうさ》一課の黒崎駒吉《くろさきこまきち》警部、通称|黒駒《くろこま》の親分は、英策の顔を見るなり溜息《ためいき》をついた。 「この頭の犯波探知機《はんぱたんちき》がレーダーみたいに働くんだよ。一時は半端《はんぱ》トンチキだと、だいぶ悪口をいわれたがね」  かるく冗談《じようだん》をいったものの、英策も今度は途方《とほう》にくれていたのだ。この酔《よ》っぱらいが、その自白通りに妻を殺し、自首して出たとしたならば、これは何でもない事件だ。ただ、彼は表面かんたんなこの事件のかげには、何か大きな秘密がありそうだと思わずにはおられなかったのである。 「とにかく、今度の事件に関するかぎりは、これ以上、あんたの手をわずらわす必要はなさそうだな……まあ、適時に適当な手段をとってくれたことは、さすがにあなたなればこそと感謝はしているが」 「どうして、そんなにかんたんなんだ?」 「犯人が、はっきりわかっているのだからな。何しろ、あんなに酔《よ》っていては、どうにも手はつけられないよ。しかし、明日にでもなって、しらふにかえったら、たちまち真相はわかるだろう」 「そうかねえ……」 「おや、こんな事件のどこに、いったい疑問があるとおっしゃるのかね」  冗談《じようだん》のようにいっているが、警部の声には妙《みよう》なひびきがある。明らかに、彼自身も何かを疑っているのだ。ただ、自分の口からはそれをいい出さず、こうして英策を挑発《ちようはつ》して、こっちから何かの暗示をひき出そうとしているなと、英策は長年、この警部とつきあった経験から見ぬいた。 「いいかね。この男は交番へかけこんだとき、短刀でずぶりと刺《さ》し殺したといったんだよ。それなのに、死体のほうは、この通り絞殺《こうさつ》死体だ。これはいったい、どうしたんだね」 「三十ぺんも頭の中で殺し続けたんだ。ことに酔《よ》っていたというんだろう。前のどれかの想像上の殺人とこんがらがったんじゃないのかな?」 「事はそれほどかんたんに、一筋縄《ひとすじなわ》で行くかなあ。少なくとも、僕がやって来たときには、この家は門も玄関《げんかん》の戸も開いていたぜ。誰かが、自由に出入りしてもわからないような状態だった」 「すると、あんたは、流しの強盗《ごうとう》のしわざだったとでもいうのかい?」 「それだったら、家中をかきまわして、金品を物色した形跡《けいせき》がある——とでもいいたいんだろう。公式、大いに結構だが、たまにはそういう公式で割り切れないような事件もあるんだよ」 「それで、あんたは?」 「この男が、医学的に見《み》て、完全な精神異常者だとすればしかたがない。精神異常者のすることに理屈《りくつ》はつけられない。しかし、そうでないとしたならね、殺人罪までおかすには、何かの動機がなければならないはずなんだよ。その上、彼は今まで二十九回も、人殺しをしたと訴《うつた》え出たんだろう。だから、少なくとも、彼は頭の中で、あの奥《おく》さんを八つざきにしてもあきたらないような気持を持っていたんだろうな。昼間は、ふつうの人間のように、何の異常もなくふるまっていても、頭のどこかには精神異常者めいた思《おも》いつきがこびりついてはなれなかったんだ。その衝動《しようどう》が、酒をのむたびごとに爆発《ばくはつ》した……しかし、一度や二度ならともかく、何十ぺんも、そういう発作《ほつさ》がおこった日《ひ》には、本人と警官の問題だけではおさまらないよ。もし、その未完成のねらいを誰かが逆用したならば……そう思うと、僕は大いにこわくなる……」 「なるほど……それでは、あんたは、ほかに誰か、真犯人がいるというんだね」 「そこまではいわない。この後の捜査《そうさ》は、警察のすることだろう」  英策も唇《くちびる》を曲げて、かすかな笑いを浮かべたまま、それ以上は話そうともしなかった。  べつに、正式に捜査陣《そうさじん》につらなっていたわけではないが、こうして現場へ来あわせたことだし、商売が商売、性格が性格だけに、英策は、新聞記者が探り出す以上の事情は、すでに頭に入れてしまった。  この男のほうは、柏田透《かしわだとおる》といって、横田《よこた》電機という小会社の庶務《しよむ》課長をしているらしい。小会社といっても、資本金三千万円というのだから、かなりの規模といってよいが、彼はまだ、町工場に毛の生えたような時代から、この社に入って、苦労《くろう》をともにして来《き》たらしい。  そういう意味で、仕事のほうはなかなかのやり手らしいが、性格には、どうも偏執者《へんしゆうしや》じみたところがあったらしい。  何でも、今度の戦争では、陸軍の爆撃機《ばくげきき》にのっていて、九州の海岸に不時着《ふじちやく》し、松の木に正面衝突《しようめんしようとつ》して、前歯を三本折ったというのだ。そのときの乗員は、ある者は眼球がとび出して失明し、ある者は頭の骨を粉砕《ふんさい》されて即死《そくし》して、後で働ける程度の体になった者は一人もいなかったということだから、彼はよくよく、武運か悪運かにめぐまれていたということになるだろう。  しかし、そのとき、眼に見えた傷はなくても、頭の神経がどこかやられて、変な性格になったのではないかと、かげ口をきく人間もあったらしい。  とにかく、金に対する執念《しゆうねん》も、人《ひと》なみはずれてすさまじかったようだった。長く独身で暮《くら》していたのも、女房《にようぼう》を持てば金がかかる。子供を生めばなお大変だという落語の主人公のような考え方からだったらしい。  殺された糸子《いとこ》と結婚《けつこん》したのも、この家がその父親のもので、家賃がなくてもすむという功利的な考えからだったらしい。だから、結婚しても、扶養《ふよう》の義務などはたしたこともなく、妻にも結婚前のつとめをやめさせず、自分の収入は全部貯金し毎月|家計簿《かけいぼ》を調べては、明らかに自分の消費と認められる支出だけをはらっていたというのだった。  もちろん、ふつうの場合には、殺人の現場で、事件の直後に、これだけの事実が判明することはまずあり得ない。今度は何しろ、前に連続的にさわぎをまき起こしているだけに、警察でもいちおう、調査を続けてはいたのだろうが、警官の口から述べられたこの男の異常きわまる性格には、人生の溝《どぶ》さらいと自称する英策でも、ただ溜息《ためいき》をつくだけだった。     三  それから二日後、英策は警視庁の黒崎警部の部屋《へや》へ立ちよったが、警部は何となく浮《う》かない顔をしていた。 「どうしたね? かんたんすぎるほど、かんたんな事件のはずだったが……」  英策が煙草《たばこ》に火をつけながら声をかけると、警部はいよいよ苦虫《にがむし》を噛《か》みつぶしたような顔になって、 「残念ながら、アリバイが出来た」  といい出した。 「ほほう、どういうアリバイだね?」 「死亡推定時刻は、解剖《かいぼう》の結果、七時前後ということになった。これは胃の内容物と死体の硬直《こうちよく》、直腸《ちよくちよう》の中の温度測定、三つの線からほぼ一致《いつち》した結果が出ているのだから、まず確実だとは思うが……」 「なるほど、それで例の男は、その時間にどこにいたというのだ?」 「彼がけちだったというのは、ほかに女がいたためらしい。まあ、ほかの女に鼻の下を長くして、やに下がっている男ほど、女房《にようぼう》に対しては、けちけちしているのは一面の真理だがね。楠山冴子《くすやまさえこ》という女のアパートで、彼は六時から八時まで飲んでいたらしい。女のほうが、自身ではっきり証言しているし、隣《となり》の住人たちも、男がくどく、何度も大声で話しているのを聞いている。喧嘩《けんか》の一歩手前のところまでいったらしいな」 「なるほど……これで事件は面白くなって来た。ところで彼が、殺した殺したとわめき散らしているのはどういうわけだ」 「何しろ、本人は酔《よ》ったあげくで、しらふになってからはいつでも、ほんとうにそんなことがあったのか——と、ふしぎに思っているそうなんでね」  警部は、何度か首をふりながら、 「ただ、本人は自分の心理を想像して、こういう気持からではなかったかといっているんだ。つまり、女房のほうには、ほかに男がいたらしい。それに気がついたので、相当に深刻な家庭争議が起こったんだね……ほかに女を作っているくせ、自分のことを棚《たな》にあげて、怒《おこ》り出すのもおかしいが、そのとき、彼はほんとうに女房《にようぼう》を殺してやろうか——と思いつめたんじゃなかろうかな。まあ、実行まではふみきれなかったのだろうが、酒を飲むと、その怒《いか》りが幻想《げんそう》の形になって、ほんとうに実行してしまったような錯覚《さつかく》にとらわれるんじゃないのかな。それで交番へかけこみ——というわけだが、医者が診断《しんだん》したところでも、彼がかるいアル中にかかっていることはたしかなんだ。そういう症状《しようじよう》がおこることも、医学的には考えられないでもないというのさ」 「それにしても、三十ぺんとは度がすぎるようだが」 「いや、それは警官のはったりだったよ。正確にいえば、七回か八回ぐらいだったと、僕には後でいっていたが……」 「しかし、たいていの女なら、話だけでもおどろくような出来事だぜ。一度や二度は、がまんをしたとしても、何度もそんなことが続いたら、いいかげん恐《おそ》ろしくなって来て、わかれようとするんじゃないのかな?」 「あの女房は、彼にぞっこん惚《ほ》れこんでいたらしいな。あんな男に——とは思うが、男女の仲だけはわからない。被虐性《ひぎやくせい》のある女なら、いじめられればかえって愛情が深くなる。それにあの女は気の毒といえば気の毒だ。兄が人殺しで十年の刑《けい》をいいわたされ、いま刑務所《けいむしよ》へ入ってるんだよ。まあ、つとめのほうは、上役の物分りがいいんで、そのままになっているらしいが、人殺しの妹ということになれば、縁遠《えんどお》くなるのはあたりまえだ。まして、ここで離婚《りこん》したということになれば、もう二度と正式な結婚《けつこん》は望めないかも知れないな」 「うむ……」  英策はかるくうなずいた。彼の古風な人生観では、何かの因縁《いんねん》が働いたのだなといいたくなるところだが、さすがにここでは口にも出さなかった。 「それで、彼女の男というのはどうなのだ。その名前はわかったかね?」 「まだだ。警察の連中は、全力をあげて、探しまわっているのだが、人妻の浮気《うわき》というやつは、捜査《そうさ》もいたって難しい。ことに、女が殺されては……むこうもたいてい名のって出ない。かかりあいになることを恐《こわ》がってね。どうも、よろめきというやつは相手に妻子のあるほうが多いからな」 「もっともといえばもっともだが……もし、これで男のほうがやっていなければ、事件の解決は、なかなか難しくなるわけだな」 「実はそれで困っているのだよ。何かいい智恵《ちえ》があったら貸してくれないか」 「そっちがそれだけ弱音《よわね》を吐《は》くのは、よくよく困っているんだね。あいにく、僕も神様ではないよ」  英策は笑って、楠山冴子の住所だけを聞くと、大股《おおまた》の足どりで部屋《へや》を出た。     四  袖《そで》すりあうも他生《たしよう》の縁《えん》という言葉はあるが、正直なところ、英策はこの事件には、これ以上自分がつっこみきれるとは思ってもいなかった。楠山冴子の住所を聞いて来たのも、いわば、ついでのような行動だったが、それからまた二日ほどして、黒崎警部から電話があった時にはすっかり驚いてしまった。  重大容疑者《じゆうだいようぎしや》として、平出達夫《ひらいでたつお》という男を召喚《しようかん》したというのである。 「それはいったいどんな男だ?」  とたずねると、相手はいくらか肩《かた》の荷をおろしたような調子で、 「これはまだ内緒《ないしよ》にしておいてもらいたいがね。ガイシャのつとめていた会社の部長なんだ。奥《おく》さんが病気で入院しているもので、つい淋《さび》しくなって、手を出したらしいな。無名の投書があったので、念のために調べて見たが、どうも挙動不審《きよどうふしん》なところがあってね。つっこんでいるうちに、肉体関係があったという事実だけは認めたんだが」 「そいつがやった見込みはあるのか?」 「温泉マークで、あいびきしたことは認めたが、彼女の家へ行ったおぼえはないと頑張《がんば》るんだ。しかし、現場から採取した指紋《しもん》の中には、明らかに彼の指紋もまじっているんだからね。逃《のが》れぬ証拠だ。こうなると」 「うむ……」 「今のところは、すっかり興奮してしまって口もきけないよ。だから、いちおう休ませて、ゆっくり話を聞こうと思っているのだが、まあ、君にだけは、前の行きがかりもあることだし、いちおう報告しておこうと思ってね。いつもはすっかり迷惑《めいわく》をかけるが、もう今度の事件に関するかぎりは、君をわずらわす必要もないと思《おも》うな」  このところ、すっかり英策に借りをつくっていることだから、嬉《うれ》しくてたまらないのだろう。警部の声は、奇妙《きみよう》なくらいはずんでいた。 「まあ、何にせよ、それはよかった。おめでとう。犯人が捕《つか》まりさえすれば、手柄《てがら》は誰でもいいんだからね」  英策もうなずいて電話を切った。今の警部の言葉の調子からいって、今度は十分自信があるのだろう。それならば、自分の仕事も忙《いそが》しいことだし、これ以上、おせっかいを焼く必要もあるまいと思ったのである。  ところがふしぎな運命は、どうしても英策がこの事件の渦中《かちゆう》から逃《のが》れ出るのを許さなかった。その翌々日の朝になって、事務所で依頼者《いらいしや》のカードを見ているうちに、英策はおやと眼《め》を見はった。  平出好子《ひらいでよしこ》——という名前だが、この姓《せい》はどうも偶然《ぐうぜん》の一致《いつち》とは思えなかったのである。  順番をかえて、英策はまずこの女を部屋《へや》によびいれた。  好子は二十三ぐらいの娘《むすめ》だったが、その顔色は真青《まつさお》だった。ろくに化粧《けしよう》もしていないらしい。真赤《まつか》に充血《じゆうけつ》しきった眼《め》で、英策をにらみつけると、開口一番、 「先生、先生ともあろうお方が、どうして無実の兄を捕《つか》まえさせたのです!」  と腹の底からの怒《いか》りをたたきつけるような調子でいった。 「兄さんというと、平出達夫さんですね」 「そうです。兄は絶対に無実です。それなのに、先生は、先生は……今までのお名前も、これで全部|泥《どろ》まみれになります!」 「まあ、お待ちなさい。あなたは誤解していらっしゃる」  英策は必死に相手の気持をなだめようとした。 「僕は一介《いつかい》の町の探偵《たんてい》ですよ。それは今までには、偶然と幸運のおかげで、いくつかの事件を解決し、悪党も捕まえては来ましたが、警察に対して指図《さしず》の出来るような立場にある人間ではありませんよ」 「でも、先生……」 「まあ、いいから最後までお聞きなさい。たしかに今度の事件でも、いちばん先に現場へふみこみ、死体を発見したのは僕です。しかし、実際問題として、今度はそれ以上、指一本も動かさなかったんです。あなたのお兄さんが捕まったというのも、警察から事後報告のような電話を聞いて、初めてわかったことなんです。これは天地神明《てんちしんめい》にかけて誓《ちか》えることですよ」  好子の体は一瞬《いつしゆん》に力なく椅子《いす》の中に崩《くず》れた。その眼《め》からは、急に堰《せき》を切ったように、ぽろぽろと涙《なみだ》がこぼれおちた。 「さあ、元気をお出しなさい。お薬でも飲《の》んで、ゆっくり話してみて下さい」  英策は戸棚《とだな》の中からブランデーの壜《びん》を出すと、グラスに注《つ》いで好子にすすめた。  好子はかつえているように、その中の液体をぐっと一息に飲みほした。  頬《ほお》にはたちまちぽーっと赤みがさした。気のせいか、呼吸もさっきよりは、ずっとおちついて来たようだった。 「もう一|杯《ぱい》いかがです?」 「わたくし、もう結構でございます」  英策も悪くはすすめなかった。つきあいのように、自分の酒を味わっているうちに、好子はデスクの上に身をのり出して、 「先生、兄はどうなりますでしょう? 新聞や雑誌を見ておりますと、ずいぶん無実の罪で、無期だの死刑《しけい》だのになる人《ひと》がいるようですけれども」 「それは例外中の例外ですよ。裁判だって、そうそうめちゃくちゃなことはありません。九割五分ぐらいは、正義の判決ですよ。だいいち、お兄さんがそこまで行くか、どうかはわかっていないじゃありませんか」  英策は極力相手をなだめようとしたが、その取越苦労《とりこしくろう》は笑いきれなかった。 「それでは、先生、兄が無実だとすれば、無事に助け出すように、お力をお貸し下さいますか?」 「のりかかった舟《ふね》で、いまさらしかたがありませんなあ」  英策も大きな溜息《ためいき》をもらした。彼の持前の義侠心《ぎきようしん》は、この娘《むすめ》のあわれな姿を見ているうちに、火のように燃え上がって来たのだ。 「とにかくお話をうかがいましょう。万事《ばんじ》はその後のことです」  ようやくおちつきをとりもどしたように、好子は話しはじめた。  彼等《かれら》の家と、犯行の現場となった柏田家とは、歩いて二十分ぐらいの距離《きより》らしい。  もちろん、好子は最初から二人の関係に気がついていたわけではないが、ある日曜に、兄たちが二人で喫茶店《きつさてん》から出て来るところを見て、おやと思ったというのだった。  二人は一目見ただけでも全く親しそうで、あかの他人とは思えなかったのである。  娘《むすめ》らしい好奇心《こうきしん》から、好子は二人がわかれるのを待って、女のあとをつけたというのだ。そして、柏田家の所在をつきとめたのである。彼女が、会社につとめていることは、名簿《めいぼ》を調べてわかった。  もちろん、不義《ふぎ》の恋《こい》だから、好子もはらはらしていたというのである。義理の姉も、長く入院中だから、男としての欲望をおさえかねて、女遊びでもするくらいなら、だまって知らない顔をしているつもりだったが、同じ会社の社員同士で、このような間違《まちが》いをおこしては、何かと問題になりはせぬかと、ひとりで胸をいためていたというのだった。  そして問題の事件の夜がやって来た。  好子はこの日の夕方、がまんが出来なくなって、自分が秘密に気がついたことを兄に打ち明け、あの女とは一日も早く手を切ってくれるようにといい出した。  平出達夫は真青《まつさお》になった。食事も中途《ちゆうと》で箸《はし》を捨て、もう一度、洋服に着かえて出かけたというのである。  好子もその時は悩《なや》んでしまった。世間知らずの自分のような娘《むすめ》が、よけいなことをいったかと後悔《こうかい》してしまったが、どうにもたまりかねて、柏田家まで出かけて行ったというのである。  好子が家の前までついたときは、ちょうど七時ごろだったが、そのとき、達夫は門を出て来たところだったという。  好子は、物かげにかくれて、そっとやりすごしたが、達夫の様子には、べつにかわったところも見えなかったというのだ。 「先生、いくら何でも、人を殺したとしたら、あわてるか、おびえるのが人情じゃございませんか。それなのに、それなのに……兄はその時も、家へ帰って来てからも、ふだんとそんなに変ったところはなかったんです。一晩中、何か思いつめたように、口はききませんでしたけれど……」 「それで、あなたはお兄さんといっしょに家へお帰りになったんですか」 「いいえ、一足おくれてあとをつけたんですの……兄はそれからどこへもよらず、まっすぐ家へ帰って来ました」 「それは、警察へはお話しになりましたか」 「いいえ、何とも申しませんでした」  ある意味では、危険この上もない証言なのだ。犯行推定時刻に、ごく接近して、この家を訪ねたということは、裁判では重大な心証《しんしよう》になって来るだろう。  たとえば、男が手切れ話を持ち出して、女に自分の握《にぎ》っている弱みをつかれ、かっとなって殺したというような例は、現実にいくらもある。肉親の場合、不利な証言《しようげん》は拒否《きよひ》できるが、この娘《むすめ》の言葉は、肉親愛から来る盲信《もうしん》とも考えられないことはない…… 「それで、お兄さんにはおあいになったのですか?」 「接見禁止《せつけんきんし》であえません。しかたがないので知合いの弁護士さんにわけを話して、面会に行ってもらったんです」 「その結果は?」 「家を訪ねたことまでは認めたそうです。指紋《しもん》が残っていたことと、門を入るところを見かけた人間があったので、のっぴきならなくなったのですね」 「そして?」 「警察で、最初から本当のことをいってしまえば、まだよかったかも知れません……ただ、兄はそれをいわなかったので、すっかり心証を害してしまったらしいんです……兄は、犯人を番外としたら、生きているあの人に、最後にあった人間です……疑いをかけられるのもしかたがないかも知れませんが……」 「泣いていないで話して下さい。それで、弁護士さんのほうはどんなことをいっていたのです。お兄さんは、彼女にあって、どんな話をしたというのです」 「別れる話を持ち出したといっているのです。何でも、会社へ脅迫《きようはく》の電話がかかって来たのだそうです。それに、わたくしの話があったものですから……あの人は、ちょうどあの日、会社を休んでいたので、一日も早く切りをつけようと、あせったというのですね」 「そうですか……」  英策も暗然たる思いだった。こうして話を聞いていても、一つとして、この兄に有利なような傍証《ぼうしよう》はなかった。すべては解釈しだいだし、またこれだけの条件では、起訴《きそ》されるかどうかはわからないが、警察が重大容疑者《じゆうだいようぎしや》と断定するだけの条件は、十分にそろっているように思《おも》われたのである。 「先生、お助け下さいませんか。兄はぜったい、絶対に無実でございます。わたくしはそれを信じます。いまのうちなら、どんな証人でも、まだ忘れたとはいえないでしょう。真犯人を捕《つか》まえることも、まだそんなに難しくないでしょう……ただ、これから時間がたつにつれて、解決もだんだん難しくなるのではないかと思いますと……どんなことでもいたします。お礼でしたら、出来るかぎり……」  英策はだまって相手の眼《め》を見つめていた。涙《なみだ》のかげには、真情の光があった。この瞬間《しゆんかん》、英策は天啓《てんけい》のような考えに思いあたった。 「やって見ましょう。あなたの真心《まごころ》に賭《か》けて、出来るだけの力をつくしましょう」  ひくいが力のこもった声で英策は答えた。     五  それから三日目の夜だった。  新宿《しんじゆく》のある深夜喫茶《しんやきつさ》の片隅《かたすみ》で、人相の悪い男が顔をよせて密談を続けていた。  ただでもうす暗い照明の店だ。ことに煙草《たばこ》の煙《けむり》が濛々《もうもう》とたちこめて、もともと人相のよくない顔が、まるで野獣《やじゆう》のように見える。 「なあ、辰《たつ》、金もうけというのは何だ? おれもジャッキの鉄《てつ》といえば、少しは人に知られた男だ。決して、お前のためにならねえようなことはしねえから、話してみなよ」  兄貴分《あにきぶん》らしい男が、反《そ》り身《み》になっていい出した。 「カツアゲだよ。かたく見て、百万はいいところだろう」 「パクリをとっちめるのか?」 「違《ちが》う。殺しの犯人をおどしつけるんだ。むこうだって、ばれれば無期《むき》か死刑《しけい》だぜ。百万ぐらいは、御《おん》の字《じ》で出すだろう」 「殺し?」  鉄もおどろいたらしかった。  人相や風態《ふうてい》でもわかるが、この男たちは、やくざの一味《いちみ》らしい。  むかしと違《ちが》って、競輪や競馬など、人間の射倖心《しやこうしん》が、公然と白日《はくじつ》の下《もと》で満足される時代では、賭場《とば》だけで、やくざ稼業《かぎよう》が成りたたないことは、常識にさえなっている。  彼等《かれら》は、いろいろの方面に暴力一歩手前の荒わざを演じることによって、やっと生計を立てているのが多い。  たとえば、一つは借金の取り立てであり、一つは詐欺《さぎ》にあった手形の現在の持ち主を探し出し、これを宿屋に缶詰《かんづめ》になどしておどしつけ、それをまきあげたりなどするのだ。  もちろん、依頼者《いらいしや》がなければ、こういう商売は成り立たないわけだが、たのむ方では、警察の力では、こういう微妙《びみよう》な経済問題はなかなからちがあかないことを知りぬいている。非合法な手段とは思っても、背に腹はかえられなくなってこういう暴力を借りるのだ。  だから、殺しに対する恐喝《きようかつ》といわれて、この男がおどろいたのも、かえってもっともかもしれない。 「それはいったい確かなのか! お前、人殺しといえば、大罪の中の大罪だぜ。それで、警察にパクられずに?」 「そうだ。うめえことをして逃《に》げやがったんだ。それで、表むきは殊勝《しゆしよう》な顔をして、とぼけているから、ふてえあまだ」 「あま? 女か……」  鉄もびっくりしたらしい。 「そうだ。まだ、年も若えのに、女を殺してすましてやがる。あんな女は人間の屑《くず》だ。風上《かざかみ》にさえ置けやしねえ」 「待て、お前は何か、証拠《しようこ》をつかんでいるのか? 下手《へた》をすると、すぐに二人とも豚箱《ぶたばこ》行きだぜ」 「証拠はあるとも。なければこんな相談は出来ねえよ」  二人の密談は、まだ続いていた。  その翌日の夜だった。  柏田透は、また顔を真赤《まつか》にして、いつもの交番にあらわれた。 「おまわりさん……」  という声を聞いただけで、警官の三村省五《みむらしようご》はふるえ上がった。  この男への嫌疑《けんぎ》は、いちおう晴れて、釈放されたということは、彼も当然聞いている。  しかし、ああしてぶきみな嘘《うそ》が続き、最後にはそれが事実となったのだ。この男が犯人でないとしても、その訴《うつた》えに始終なやまされ続けて来たこの警官が、恐怖《きようふ》を感じることもしかたがなかったろう。 「おまわりさん……私は人を殺して来ました。またこの手で人を殺したんです……」 「君は、どうやら、予言の能力があるらしいな。今度はどこで、誰を殺した?」  皮肉のような言葉を吐《は》きながら、バンドをしめ直して、たずねると、柏田透は、酒くさい息をその顔にふっかけて、 「あの切通《きりどお》しの下の空地《あきち》です。早くいっしょに来て下さい」  と催促《さいそく》した。 「ああ、あそこかね? それじゃあ、明日《あす》の朝よって見る。死体があったら、すぐに出頭を命じるからね」 「そんなことをいって……殺人は大罪なんです。早く自首して出なかったら、こっちが死刑《しけい》になってしまいます」  三村省五は、相手の横っ面《つら》をはり倒《たお》してやりたいような衝動《しようどう》を感じた。むかしなら、こんな人さわがせな野郎《やろう》は、保護検束《ほごけんそく》で、十日ぐらい留置場にたたきこんでやるのに——と思いながら、 「それでは、念のために行って見ようか」  と交番を出た。 「今度の相手は女かい? それとも男?」 「男、もちろん男です。かなり強そうな相手でした」 「ほほう、男ね、よくやれたなあ。そんなに酔《よ》っぱらっているのに」 「私はこれでも、むかしは柔道《じゆうどう》三段だったんです」 「その体でねえ、今度はなぐり殺したのかい」 「ええ、地面にたたきつけておいて、石で頭をめちゃくちゃにたたきつぶしてやったんです。ただし、正当防衛《せいとうぼうえい》です。むこうをやらなかったら、こっちが殺されるところでしたから、どうにもしかたがありません」 「しかし、正当防衛も、度がすぎると、過剰防衛《かじようぼうえい》ということになって罪になるんだぜ」  どうにも奇妙《きみよう》な会話だった。現職の制服を着た人間と、殺人を自首して来た人間が、和気あいあいと、こんな話を続けるのは、常識では理解できないことだった。  切通し——といえば、このあたりでは通り名だが、道の片方には私鉄の線路があり、反対側は高く石を積んで、その上が空地になっている。  そこまで来て、舗装《ほそう》道路を見まわして、三村省五は肩《かた》をおとしていった。 「さあ、君の殺した男はどこにいる? 死体を見せてもらおうじゃないか」 「死体……」  柏田透の体はとたんにぐにゃりとなった。急に酔《よ》いがまわって来たように、そのまま舗道《ほどう》に崩《くず》れると、 「その男を殺したのは、私なんです……」  と十八番のせりふを、譫言《うわごと》のように叫《さけ》び出した。 「畜生《ちくしよう》!」  こんなことになるのではないかと思っていたが、まただまされたかと思ったとたんに、三村省五は、胸がむかむかしてたまらなくなって来た。腸《はらわた》のちぎれるような鬱憤《うつぷん》を一語にこめて、 「起きろ! この野郎《やろう》、ふざけんな! 病院へでも行きやがれ」  と、民主警官にもあるまじき一言を吐《は》いたとき、彼は思わず耳を疑った。闇《やみ》を破って、たしかに拳銃《けんじゆう》らしい音がひびいて来たのだった。     六  この寸前《すんぜん》、大前田英策は、二人の男を向うにまわして、この上の空地《あきち》に仁王《におう》のように立っていたのだった。 「おお、大前田の五代目。お前にも、そろそろ年貢《ねんぐ》のおさめ時が来たようだな」  ジャッキの鉄というあの男が、唇《くちびる》のそばの傷を妙《みよう》に歪《ゆが》めて笑い出した。 「冗談《じようだん》じゃねえ。おれをだしに使って、兄貴《あにき》をおとしいれようたって、そうは問屋《とんや》がおろさねえ」  辰といわれた男のほうも、ぶきみな声でこれに応じた。 「ほう、そのハジキはSWかね。それだと、なかなか音は消せないがね」  英策は平然と答え返した。 「なに……なめんな!」 「なめはしない。ここから自首して出る気はないか。その引金をひく前に、恐《おそ》れ入りましたと名のって出れば、まさか死刑《しけい》にはならないだろう」 「なに!」  凶暴《きようぼう》な殺意が、声にあふれた。  闇《やみ》をやぶって、鋭《するど》い銃声《じゆうせい》がひびきわたったのは、その一瞬《いつしゆん》後のことだった。  英策の体は大きく左へ飛んだ。彼の得意《とくい》の合気道《あいきどう》では、敵の攻勢《こうせい》を一瞬《いつしゆん》前に感知して、間合《まあい》をはずし、次の攻勢に移るのが、極意中《ごくいちゆう》の極意とされている。夜ならば、五メートル前の拳銃《けんじゆう》と相対《あいたい》しても、名人だったら、絶対に弾丸《たま》を身にうけないといわれている。  次の瞬間《しゆんかん》、英策の手からはつぶてが投げられた。  眼《め》をおさえてよろめいた辰の体へ、英策は体あたりにぶつかって行った。  辰の体は、ななめに飛んで、ジャッキの鉄に激突《げきとつ》した。一人の体を楯《たて》にして、ほかの一人の攻撃を、切線《せつせん》の方角へそらそうとする、合気道独特の攻勢防禦《こうせいぼうぎよ》だった。  辰の手からは拳銃が飛んだ。  そして、英策は一瞬後に、鉄の拳銃を持つ手を逆にねじあげていた。  むちゃくちゃに、しがみついて来た辰の体を、英策は右足でけとばした。  わーっとわめいて、辰は後ろへふっとんだ。崖《がけ》の端《はし》でふみとどまろうとして、たちまち平均《へいきん》を失うと、そのまま頭から、下の道路へ落ちて行った。  一人と一人、それも武器が自由にならないでは、もう鉄は英策の敵ではなかった。  右腕《みぎうで》を逆に逆にとねじあげられて、鉄は地面へ倒《たお》れていった。 「どっちが年貢《ねんぐ》のおさめ時《どき》かね?」  もう十分に余裕《よゆう》をとりもどした英策は、相手を膝《ひざ》でねじふせながら、笑いさえ浮《う》かべていうのだった。 「誰だ! いったい何をしている」  坂道を反対側から息をきらしてかけ上がって来た三村省五は、英策の顔を見て、おどろいたような叫《さけ》びをあげた。 「大前田先生!」 「いま、ちょっと獣狩《けものが》りをやっていたところですよ。こいつを絞《し》めあげてごらんなさい。きっと、柏田糸子殺しの真相はわかるでしょう。それでなくても、僕に対する殺人未遂《さつじんみすい》、拳銃の不法所持などで、十年はかたいところですかな」     七 「ジャッキの鉄は、とうとう泥《どろ》を吐《は》いたようだね」  その翌日の午後、警視庁の黒崎警部の部屋《へや》へ入って来て、英策は笑いながらいい出した。 「うん、それにしても、危ないまねをするものだ。万一のことがあったらどうするつもりだった?」 「このところ、あんまり体を使う事件がなくて、腕《うで》がむずむずしていたからな。たまには武勇伝《ぶゆうでん》もよかろうよ」 「でもよく、竜子姐御《りゆうこあねご》が認めたなあ」 「女房《にようぼう》には内緒《ないしよ》、事後承諾《じごしようだく》だ」  英策は、煙草《たばこ》に火をつけながらにやりと笑った。 「三人、犯人は三人だろうな。柏田透と、楠山冴子、それにジャッキの鉄と」 「鉄は自分でそういっている。彼は冴子の弟なんだな。姉たちにたのまれて、糸子を絞《し》めたことを白状した。後《あと》の二人は知らぬ存ぜぬで頑張っているが、崩《くず》れるのは時間の問題だろう」 「たしかにそんな感じだね。楠山冴子という女は、前身たいへんなズベ公だったということは、僕の事務所の調査でわかったよ。こういうことの調査なら、警察よりもこっちが上手《じようず》かも知れないさ。その線をたどって調べて行ったら、あんな獣《けもの》みたいな弟がいることがわかった。やくざの暴力団などは、まるで野獣《やじゆう》のようなものさ。これはくさいと思ったので、その弟分の辰を道具に使っただけだ。楠山冴子をゆすってやろうと持ちかけたんだよ。あの二人が糸子を殺して、財産をのっとろうとしている陰謀《いんぼう》を、かぎつけたといってね。もちろん、証拠《しようこ》などありはしないが、僕はただ、この話を聞いたときのむこうの反応を見たかっただけだ」 「無茶だな。てんで無茶苦茶だ。犬も歩けば何とやらかな」 「そういうけれど、警察だって、危ないところで、罪のない平出達夫を、犯人として送検《そうけん》するところだったんだよ。いや、これは皮肉でも何でもない。どんな人間にしたって、あやまちは避《さ》けられないよ」 「まるで、からかわれているみたいだな」 「そうじゃない……僕のしたことはたしかに、はったりに違《ちが》いない。ただ相手を見て法を説《と》けで、あんな手合に対しては、正攻法《せいこうほう》の推理より、こんな大芝居《おおしばい》のほうが成功することもあるんだよ。鉄のほうは、話を聞いた時、ぎくりとしたに違《ちが》いない。そういう時には逃《に》げるか、それとも死物狂《しにものぐる》いに反撃《はんげき》して来るかどっちかが野獣《やじゆう》の本性《ほんしよう》だ。知らない顔をしてすましているというようなまねは、やつらには出来ないんだよ」 「逃げたらどうするつもりだった?」 「どこまでも、僕の部下が追いかけたよ。あの二人には、ずっと見張りがついていた。その時はまたその時で、ほかの作戦も立てるつもりだったが、案外早くすんで助かった」 「あんたにかかっちゃかなわない。ただ、あの柏田透のほうは何だって、あんなに自分の犯罪を前もって吹聴《ふいちよう》して歩いたんだろう」 「一種の精神異常者だということはたしかだろうね。医者の批評は知らないが、犯罪者、ことに殺人犯などは、大なり小なり、精神異常の傾向はある。その中でも彼はいいかげん、向う側へ行っていたんじゃないかな。昼のあいだは、いちおうの会社員としてすましていて、夜になると、酒を飲んだならことに、犯罪者の性格があらわれて来る。しかし、野獣《やじゆう》というものは、案外|臆病《おくびよう》なところもあるらしいからなあ」 「その臆病さが、どんなところにあらわれたというんだい?」 「それが、殺人のあの予告だよ。彼は犯罪を企《くわだ》てていながら、心の中で、何となく失敗の予感を持っていたんじゃないかな。酒を飲むたびに、その予感が爆発《ばくはつ》したのだろう。ああして、自首して出たような恰好《かつこう》にしておけば、自分だけでも罪はかるくなるかも知れないと、また考えようによっては、ああして始終警察へ飛びこんでおけば、精神異常が認められて、罪がかるくなるかも知れないと、保険をかけるようなつもりもあったんじゃないのかな。それならいっそやめればよいのに、そこが複数犯人のこわいところだよ。いったんはずみがついてしまうと、もう一人ではとめられない。そういう意味では、この犯罪の主犯、中心の原動力は、冴子という女だったかも知れないがね」  ショックで殺せ   脳波《のうは》の恐怖《きようふ》 「金沢道子《かなざわみちこ》さんですね。御用件は?」  大前田英策《おおまえだえいさく》は、新しい客に椅子《いす》をすすめながらいった。声に少しばかりうんざりした調子が出ていることは自分でもわかった。  頑健無比《がんけんむひ》な彼にしては珍《めずら》しく風邪《かぜ》気味で、頭も体も熱っぽいのに、今日はどういうわけか、朝から浮気《うわき》な亭主《ていしゆ》の素行《そこう》調査の依頼《いらい》ばかりが持ちこまれた。たてつづけに三件、のろけまじりの泣言を、たっぷり聞かされていたのだった。  そこへまた、この女なのだ。  年のころは二十五、六だろう。人妻に違《ちが》いないことは、一目見ただけで察しがつく。いちおう以上の美人だが、容貌《ようぼう》は何となく古風でしめっぽく、個性《こせい》的な魅力《みりよく》にはとぼしい。顔には暗い影《かげ》があり、両眼はいかにも神経質におちつきがなく、たえずきょときょと動いている。私立探偵《しりつたんてい》として長年の年期をいれた英策の経験によると、こういう場合は九割まで、まず亭主の浮気調査の依頼と相場がきまっているのだった。  ところが、この予想は半分あたって半分はずれていた。 「先生、わたくし……夫と離婚《りこん》したいのでございます……」  道子は思いつめたようにいい出した。 「離婚? そこまで決心されたのなら、もうわれわれの出る幕はないようなものじゃありませんか。どこか、弁護士さんのところへでもおいでになったら」  先手を打って、英策が高飛車《たかびしや》な態度に出ると、道子はいっそう語気を高めて、 「いいえ、先生、弁護士さんには、もう御相談いたしました。それで、いまはもう先生のお力をお借りするしかございません。先生、このままで行きますと、わたくしは夫に殺されてしまいます。どうか、お助け下さいませんか」  と、完全にとり乱した調子でいいだした。  英策も思わず眉《まゆ》をひそめて、 「殺されるというのは、おだやかじゃありませんが、御主人が酒乱か何かで、乱暴をなさるのですか? そういうことでしたら、たとえ協議離婚《きようぎりこん》がととのわなくても、裁判上の離婚原因にはなると思いますから、やはり弁護士さんに……」 「それが先生、いまのところでは、どうにもならないと、弁護士さんはおっしゃるのです。夫のほうは、離婚には絶対反対ですから、家出しても、わかれてはくれないと思います。先生、お願いでございます……費用はいくらかかってもかまいませんから、夫の行状《ぎようじよう》を探って、浮気《うわき》でも何でも、どんなことでも結構でございますから、何とか離婚の原因になるような材料を発見していただけませんか」 「なるほど、そこまで来れば、事はたしかに私立探偵《しりつたんてい》の領分でしょうが」  英策も溜息《ためいき》をつかずにはおられなかった。 「ただ、あなたが御主人のほうに、浮気なり何なり、そういう事実があるだろうと推定なさるのには、どれだけの根拠《こんきよ》なり裏づけがおありなのです」 「根拠はべつにございません」 「ない……それではむだ骨になるかも知れませんね」 「でも。もし、なにか一つでも、そういう事実がありさえすれば、わたくしは救われます。先生、人助けだとお考えになって……」  話はどうどうめぐりを続けていた。  英策は立ち上がって、重要書類と書いた紙のはってある戸棚《とだな》をあけて、葡萄酒《ぶどうしゆ》の瓶《びん》とコップをとり出した。興奮している女には、酒も鎮静剤《ちんせいざい》として、大いに効能があるものだ。 「まあ、一|杯《ぱい》お上がりなさい。ところで、奥《おく》さんは、御主人のどこが不満で、離婚《りこん》、離婚とおっしゃるのです?」 「わたくし、とてもこわいのです……ただ、何と申しましょうか」  道子は、デスクの上においてある葡萄酒のコップに眼《め》をおとした。その赤い色が、なにかを連想させたのだろう。はじかれたように顔をあげると、 「あの人は、西洋の伝説に出て来る吸血鬼《きゆうけつき》ではないかと、そんな気《き》さえするのでございます」 「吸血鬼? たとえば映画に出て来るドラキュラのように、人の生血《いきち》を吸うという怪物《かいぶつ》ですか?」  英策もこの言葉には面くらった。コップから口を離して、じっと相手の顔を見つめたが、精神に異常があるとは思えない。その真剣《しんけん》な表情から察しても、冗談《じようだん》とか誇張《こちよう》した表現とも思えなかった。 「はい、むかしはそうでもなかったのでございますが、脳波《のうは》だとか霊波《れいは》だとか、気ちがいじみた研究を始めるようになりましてから、すっかり人が違《ちが》ったようになったのです」  話はようやく本筋に入りはじめた。  それによると——  道子の夫の金沢|敏行《としゆき》は、聖和《せいわ》医大のもと助教授で、大脳生理学を専攻していたらしい。人間の脳からは、脳波というかすかな電流が発生している。これを測定してグラフにとり、脳の活動を調べることは、科学的にもすでに認められた方法で、彼はこの方面では、いくつかの独創的な業績を残したというのだった。  そこまでは学者として、何の問題もないのだが、その研究も度を越《こ》して、とんだ迷路に入ったらしい。  ——いままでの科学で解決できない奇跡《きせき》や神秘は、九割までが脳波の作用によるものだ。それを一段上まわった霊波《れいは》を放射したならば不治の病人を治すことも、逆に何の痕跡《こんせき》ものこさず人を殺すことも不可能ではない。  などといい出したのである。  もちろん、こういう行きすぎた議論が、現代の学界で、そのまま認められるはずはなかった。敏行は、ほかの学者たちと大激論《だいげきろん》をやったあげく、憤然《ふんぜん》として大学をやめてしまった。そして、ある精神病院へつとめる一方、ひまさえあれば、書斎《しよさい》に閉じこもって、わけのわからない研究を続けているというのだった。それだけならば、一徹《いつてつ》な学者|気質《かたぎ》のあらわれとして、まだがまん出来ないこともないが、家には最近、関森幽斎《せきもりゆうさい》という怪人物《かいじんぶつ》が出入りを始め、その男が気味のわるいことばかりいい出すので、とうとう辛抱《しんぼう》しきれなくなったというのである。  英策が話を聞いて受けた印象では、関森幽斎は、霊媒《れいばい》とか心霊術《しんれいじゆつ》師とかいわれるような人物らしい。しかし、敏行にいわせると、彼は当代無類の念波力《ねんぱりよく》の持主で、遠くにはなれている人間を祈《いの》り殺すぐらいのことは、何の雑作《ぞうさ》もなく出来るというのだった。  道子もすっかり神経がまいってしまって、一週間前に家をとび出すと、姉の恵子《けいこ》のところに転がりこんだというのである。  これで、話の筋道はわかったが、英策にも名案は思い浮かばなかった。日本では、ハリウッドのスターたちが、離婚《りこん》の理由として濫用《らんよう》する「精神的|虐待《ぎやくたい》」というような口実は、認められていないといってよい…… 「それで、姉さんたちの御意見はどうなのです。もちろん、結婚《けつこん》しておいででしょうが」  といいかけたとき、ドアをノックして、秘書の池内佳子《いけうちよしこ》が入って来た。英策と道子の顔を等分に瞶《みつ》めて、 「先生、お話中ですが、このお客さまの義理のお兄さまがお見えになりました。おさしつかえなければ、同席した上で、自分からもお話をしたいということでございますが、いかがいたしましょう?」   狂《くる》った脅迫《きようはく》 「菅原周太郎《すがわらしゆうたろう》と申します。神田《かんだ》で運動具の店を経営しておりますが」  この男は四十がらみのがっちりした体格だった。ていねいすぎるぐらいのお辞儀《じぎ》をして、どかりと道子のそばへ腰《こし》をおろした。 「いま、一通り妹さんから事情はうかがったのですが、あなたのほうは、男として、ここまで事態が進展する前に、なにかの手はおうちにならなかったのですか」 「それが……私が交渉《こうしよう》に行きましても、金沢のいうのには、自分は道子を愛している。だから離婚《りこん》の意志も理由もない。道子もいまに自分の研究を理解してくれるだろう——とがんばるばかりで、とうてい円満な話しあいはつきそうもないのです」 「そうですか。すると、御主人のほうでは、まだ愛情は残っているわけですね」 「さあ、その原因は愛情ですかな? 私は案外、金にすべての原因があるんじゃないかと思うのですが」 「金といいますと」 「家内たちの父親、つまり私の義父は、かなりの遺産を残して死んだのです。ほかには子供もありませんでしたから、だいたい二等分して、家内と妹が相続したのですが、御承知のように、現在の法律では、妻の財産は夫の財産とべつになっていますから、敏行よりは道子のほうが金持なんです。彼は道子の財産を気ちがいじみた研究に注《つ》ぎこもうとしているんじゃありませんか。まったくひどい男です」 「なるほど、それで、離婚《りこん》にも同意しないというわけですか」 「それに、金沢という男は、道子にだけではなく、私の女房《にようぼう》にまでも、ひどいしうちをしているのですよ。関森幽斎《せきもりゆうさい》とぐるになって、恵子からも生血《いきち》を吸おうとしているのです」 「それはどういうことですか? まだ、そこまではお話をうかがっていませんが」 「それはこういうわけなのです。私どもは一年前、たった一人の子供を交通事故でなくしてしまったのですが、それ以来、恵子は半病人のようになってしまいましてね。もともと体は丈夫《じようぶ》なほうではありませんが、そのショックで、ノイローゼのようになってしまったのです。私も心配ですから、金沢に診察《しんさつ》をたのんだのです。当時は、あれほど頭がおかしくなっていませんでしたから、すっかり信用していたのですが」 「なるほど、それで?」 「それで幽斎があらわれたのですよ。どういう手段を用いたのかは知れませんが、やつはすっかり女房をたぶらかしてしまったのです。たぶんインチキな心霊術《しんれいじゆつ》でも使ったのでしょうが、私がしまったと思ったときには、もう手おくれでした。いまでは、私や道子のいうことはぜんぜん聞きいれず、あの男のいうことなら、何でも従う始末でしてね。まあ、それで元気になってくれれば、まだがまんしますが、このごろは、だんだん弱って行きましてね」 「ほかのお医者には、お見せにならなかったのですか?」 「心臓《しんぞう》がいくらか弱いのは事実なようです。ただそれも、過激《かげき》な運動は出来ないという程度で、日常の行動にはさしつかえないはずだということですが」  菅原周太郎は顔色を曇《くも》らせて、 「私の見たところでは、敏行はあの幽斎というイカサマ師のおかげで変になったのだと思うのです。それで、私からもお願いするのですが、何とかして、あの男の化けの皮をはいでやってはいただけませんか?」 「なるほど、その黒幕の正体がはっきりつかめれば、あなたの奥《おく》さんも本心にかえられるでしょうし、こちらの妹さんにしても、離婚《りこん》なさる必要はなくなるかも知れないというわけですね」 「先生、それとこれとはべつでございます」  道子は、むっとしたように、横から言葉をはさんだが、英策はなだめすかすように答えた。 「まあ、こういう問題は一朝一夕《いつちよういつせき》では行きませんよ。各個撃破《かつこげきは》という戦法は、戦術の原則の一つですからね」 「お願いします。何しろ、やつは自分の意志にそむく者は、かたっぱしから殺してやると気ちがいじみた脅迫《きようはく》ばかりするんですよ。まさかとは思いますけれども、気味がわるくてかないません」  周太郎は、額《ひたい》の汗《あせ》をふきながらいった。   恐怖《きようふ》か苦痛か  英策は、さっそく助手の野々宮《ののみや》に関森幽斎の調査を命じた。  彼は中目黒《なかめぐろ》に住んでおり、「宇宙|霊波《れいは》研究所」という看板を出していることは、二人の話からわかったが、実際のところは、自分があたって見るしかなかった。最初から自分でのりこむのも、あんまり激《はげ》しすぎると思って、まず予備調査をさせたのだが、翌朝、野々宮は呆《あき》れたような顔で報告した。 「先生、昨日《きのう》は時間がなかったので、大ざっぱな調べをしただけですが、どうもあの家は伏魔殿《ふくまでん》、あの男は大色魔《だいしきま》みたいですね」 「ほほう、霊波をかけて、女を夢心地《ゆめごこち》にした上で、攻《せ》めおとすというわけなのかね」 「そうじゃないかと思うんですが、出入りするお客はほとんどが女で、たまに男のお客が来ると、帰れ——と大喝《だいかつ》するらしいですね。占《うらな》いでもするのかと思いましたが、じつは御祈祷《ごきとう》なんですよ。夜中でも時々、近所にひびきわたるような大声で、のりとか何かあげるんで、隣《となり》の奥《おく》さんなどはうんざりしているようです。あれは、軽犯罪法《けいはんざいほう》か何かにふれるんじゃないですか」 「警察にでもとどけて注意してもらったらどうなんだ」 「それが、あんまり近所からいわれるんで、近くの交番のおまわりが、注意しに出かけたというんですよ。今年の春のことだったようですが、なにかのたたりにあったんですかね。その後、すぐに結核《けつかく》になって、警察病院かどこかに入院しているらしいんです。もちろん偶然《ぐうぜん》の結果でしょうが、それで近所がすっかりふるえ上がってしまって、もう物言いをつけようとする人間もなくなったというんですがねえ」 「なるほど、それは不幸な偶然だったろうが、僕の頭の犯罪探知機には、いまぴりぴりと反応があるね。これはどうも、宇宙の霊波《れいは》じゃなさそうだ」  英策は満々たる闘志《とうし》を唇《くちびる》のあたりにたたえて笑っていた。そして、幸か不幸か、この反応は決してあやまっていなかったのである。  その翌朝、英策が事務所へ出て来ると間もなく、菅原周太郎から電話がかかって来た。  恐怖《きようふ》と悲歎《ひたん》ですっかりとり乱したように、 「先生……家内が……恵子が……死にました。いや、殺されたのです!」  と、呻《うめ》いていた。 「何ですって!」  英策も汗《あせ》ばんだ手で受話器を握《にぎ》りしめると、 「その殺人の方法は?」 「それが、はっきりわかりません。ひょっとしたら……もしかしたら……念波《ねんぱ》の作用だったかも知れません。先生、すぐ来て下さい。お願いします!」 「念波で?」  まさか、周太郎まで頭に来てしまったのでは——と英策が耳を疑ったとき、電話は女の声にかわった。道子が、この義兄に劣《おと》らず、興奮しきった調子で、 「先生、姉は死にました。わたくしの身がわりに殺されたのかも知れないのです……」 「どうして、そんなことをおっしゃる?」 「姉がわたくしの泊《とま》っていた部屋《へや》に寝《ね》ていたからなんです。先生、お願い……お願いします。警察は笑って相手にしてくれません」 「わかりました。すぐにうかがいます」  英策は電話を切ると、すぐに支度《したく》をして菅原周太郎の家へむかった。電話では細かな事情まではわからなかったが、二人の短い話からいっても奇怪《きかい》な事件のようだったし、行きがかりからいっても、いまさらひっこめなかった。  ところが教えられた番地のあたりで車をとめ、「菅原周太郎」と表札の出ている家の前に立ったとき、英策は思わず首をひねった。  殺人事件が起こったにしては様子が変だった。警官の姿も見えないし、野次馬《やじうま》もいない。いくらか、人の出入りは多い感じだが、これは死人のあった家としては、当然のことだろう。 「どういうわけかな?」  とひとりごとをいいながら、英策は玄関《げんかん》のベルをおした。  三十|歳《さい》ぐらいの顔色のわるいお手伝いが出て来て、英策を応接間へ案内してくれたが、そこには周太郎と道子のほかに、三人の男がすわっていた。その一人は、前に何度か、事件で顔をあわせたことのある尾関刑事《おぜきけいじ》だった。 「どうも、このたびは、とんだことで」  と英策が頭を下げたとたん、尾関刑事は、 「大前田先生、ちょっとこちらへ」  と声をかけ、英策を廊下《ろうか》へおしもどした。 「先生が事件に関係された事情は、あのお二人から聞きましたが、いいかげんにあしらって手をひかれた方がよさそうですよ」 「それはどうして?」 「精神異常者だ——とまではいいませんが、ノイローゼ患者《かんじや》のお相手をしていちゃたまりませんからね。いま、あの二人に必要なのは、われわれよりも、神経科のお医者じゃないでしょうか」 「それでは、ここの奥《おく》さんが殺されたというのはでたらめなのかい?」 「死んでいることは死んでいます。ただ、それを他殺と思うのは、彼等《かれら》二人の被害妄想《ひがいもうそう》じゃないかということですよ。あそこにいた二人は、一人が監察医《かんさつい》、一人がこの家のかかりつけの笠村《かさむら》という博士です。この二人が二人とも、口をそろえて、自然死——心臓麻痺《しんぞうまひ》だと診断《しんだん》しているんですからねえ」  尾関刑事は、英策を廊下のつきあたりの部屋《へや》へひっぱって行った。 「さあ、御自分でごらん下さい。先生ならばこの奥さんが殺されたかどうかは、一目でおわかりでしょう」  六|畳《じよう》の部屋には、布団がしかれ、そこに白布をかけられた恵子の亡骸《なきがら》が横たえられていた。英策は静かに拝礼して、白い布をとった。道子より三つ四つ年は多いだろうが、その容貌《ようぼう》はよく似ている。長い病気の痕《あと》をとどめるように、いくらかやつれた青白い死顔は、いまにも叫《さけ》び出しそうな感じに歪《ゆが》んでいた。 「自然死にしては恐ろしい死顔だね。何か極度の恐怖《きようふ》におびえきったような感じだが」 「そうでしょうか。恐怖というより、苦痛の表情じゃありませんかね。真夜中に突然《とつぜん》、激《はげ》しい発作《ほつさ》があって、痙攣《けいれん》で口がきけなくなり、そのまま心臓が停《とま》って死んだとしたら、こんな死顔になったとしても、ふしぎはないと思いますがね。とにかく、外傷もなければ、毒物の痕跡《こんせき》もないのです。ふつうの場合《ばあい》とは逆に、お医者のほうが、解剖《かいぼう》の必要はないと断言《だんげん》しているんですからね。もし、これが殺人だとしたならば、それこそあの二人の話の中に出て来る脳波《のうは》とか念波《ねんぱ》とか、そんな妙ちくりんなものの働きとしか考えられません。ただ、そんなことでは、どの検事《けんじ》さんだって起訴《きそ》はしませんよ。私は即時《そくじ》くびになります」 「うむ……」  たしかに、刑事《けいじ》のいう通りだった。しかし英策《えいさく》の心の疑惑《ぎわく》は、おさまるどころか、かえって強くなるばかりだった。  英策は、納戸《なんど》のようになっている部屋で、周太郎から、いちおう話を聞くことにした。 「お電話では、寝室《しんしつ》が、いつもと違《ちが》っているというお話でしたが」 「はい、家内の部屋《へや》の壁《かべ》を塗《ぬ》りかえましたので……臭《にお》いが鼻につくといって、昨夜《ゆうべ》は道子の泊《とま》っていた部屋へ移ったのです」 「失礼ですが、奥《おく》さんとあなたはいつも、べつの部屋におやすみだったのですか」 「はい、家内はこのところずっと半病人だったことですし、私のほうは、夜おそくまで寝《ね》つきの悪いほうですから」 「なるほど、それで道子さんは、昨夜《ゆうべ》はどこに?」 「それが、昨夜《ゆうべ》は帰って来なかったのです」  周太郎は、そっと声をひそめて、 「十一時ごろ、友だちの家へ泊る——と電話があったのです。これが結婚《けつこん》前の娘《むすめ》なら、私も義理の兄として、とんでもない——と叱《しか》りつけるところですが、もう一人前の女なら、自分の行動には、自分で責任が持てるでしょう。そう思ったので、その友《とも》だちが男か女かもたずねなかったのです」 「それでは、あなた方は、昨夜《ゆうべ》お二人だったのですね?」 「お手伝いが四、五日前に逃《に》げ出しまして……昼は家政婦が来てくれますが、家内にしても、そうそう寝《ね》たきりでもなかったものですから」 「死亡推定時刻は、十二時前後というお話でしたが、そのとき、あなたは?」 「十一時に電話を聞いて、すぐに床《とこ》につきました。どうしたのか、昨夜《ゆうべ》はひどく眠《ねむ》くて、がまんが出来ませんでしたから」  周太郎は恐ろしそうにあたりを見まわし、声をひそめて、 「先生、私が解剖《かいぼう》をお願いしたのは、つまらない噂《うわさ》のひろがるのを心配《しんぱい》してのことなのです。昨夜《ゆうべ》は、私たち二人きりでしたし、もしも後から、変な嫌疑《けんぎ》でもかかってはやりきれません。さっきはとり乱しておりましたから、念波《ねんぱ》の作用かも知れないなどと申しましたが、私としてもこの際は、死因をはっきりさせておかなければ、気持がすっきりしないのです。どうか、先生からも警察へ解剖を……」  といいかけたとき、道子が顔色をかえてとびこんで来た。 「お兄さま! 幽斎がいま玄関《げんかん》へ!」 「何だと!」  周太郎は、眼《め》を血走らせてとび上がった。   おれが犯人だ  もちろん、英策もすぐに周太郎のあとを追った。  玄関先《げんかんさき》には、総髪長髯《そうはつちようぜん》の右翼《うよく》のような男がたっていた。羽織袴《はおりはかま》に自然木《しぜんぼく》の杖《つえ》という姿は明かに明治の壮士《そうし》といういでたちだが、その両眼はぎらぎらと、焔《ほのお》のように燃えている。 「幽斎! いったい何をしに来たのだ」  周太郎が憤然《ふんぜん》と喰《く》ってかかると、幽斎はまるで腹話術《ふくわじゆつ》を使っているような声で、 「お悔《くや》みをいいに来たのだ。昨夜《ゆうべ》、奥《おく》さんが死んだはずだからな」 「貴様《きさま》は、どうして、それを知っている?」 「どうしてといって、おれが殺したのだから、知っているのは当然だろう」 「なに、何だと!」 「あれは夜中の十二時ごろかな。わしは、かっと念波《ねんぱ》を発射したのだ。昼は、雑音雑事にさまたげられて霊波《れいは》の有効|距離《きより》も短いが、夜ふけならば、東京都内の人間ぐらい、祈《いの》り殺すのは何でもない」 「なぜ、なぜ、そんな……」 「貴様たちが、わしを遠ざけたからだ」  幽斎の眼《め》も言葉も、いよいよ気ちがいじみて来た。 「わしの言葉を忘れたのか? 脳波《のうは》、念波、霊波《れいは》——そういう区別は現在どうでもいいが、この霊力《れいりよく》を信じなければ、いまに思い知らせてやるといった言葉を忘れたのか。どうだ、少《すこ》しは眼が開いたか?」 「こ……こいつ!」  周太郎は逆上したように、幽斎に飛びかかろうとしたが、英策はそれをおしとめて、自分で幽斎に直面した。 「君は自分でこの奥さんを殺したというのか?」 「君は大前田とかいうへっぽこ探偵《たんてい》だな? 君の手下はいま必死に、わしを追いまわしているらしいが、商売とはいいながら何とも御苦労|千万《せんばん》なことだ」  幽斎は蛇《へび》のような眼《め》で英策を見《み》つめ、鋭《するど》くすべての秘密を知りぬいているようなせりふを吐《は》いた。 「ほう、よくそこまでかぎ出したな」 「かぎ出したと? はは、馬鹿《ばか》な。五官《ごかん》にしかたよれないのは凡人《ぼんじん》のあさましさ。霊波《れいは》の神秘を身につけたものには、天地万物《てんちばんぶつ》、森羅万象《しんらばんしよう》、一つとして、秘密の見やぶれないものはないのだ」 「それでは、おれも念波《ねんぱ》とやらで殺せるか」 「死にたいのか! そんなに……」  幽斎はまたぎょろりと眼を光らせた。 「そうだ。おれは、手前《てめえ》の大はったりなんぞ信用しやあしねえぜ」  英策は、有名な大侠客《だいきようかく》、大前田英五郎《おおまえだえいごろう》から数えて五代目の子孫にあたるから、なにかの拍子《ひようし》に生地《きじ》が出る。この時も、幽斎の顔を見ているうちに、胆汁《たんじゆう》が自然にこみ上げて来て鉄火《てつか》な啖呵《たんか》となって爆発《ばくはつ》したのだった。 「おれは不死身《ふじみ》といわれる男だ。念波なんてえものが、この世にあってたまるかと思っている。手前《てめえ》はいずれ、暗いところへたたきこんでやるつもりだ。さあ、これだけ条件がそろったら、手前《てめえ》が怒《おこ》るには十分だろう。殺して見ろ。今夜でも明日《あす》の晩でも、手前《てめえ》の勝手なときに」 「殺してやる。それほどいうなら……」  口では、きびしく答えたものの、やはり英策の激《はげ》しい気魄《きはく》にはおされたのか、幽斎は横に視線をそらして、 「恵子さんは、子供に先だたれてから、自分も死にたい、一日も早く子供のそばへ行きたい——といっていた。だから、望みをかなえてやった。そっちの探偵《たんてい》も、いずれは同じことになるだろう」  幽斎は狂ったような声で笑った。 「一つは道子への見せしめだ。お前が不義《ふぎ》を働いていることは、わしにはよくわかる。いいかな、夫を裏切るようなまねをすれば、今度はお前が、脳へ念波の一撃《いちげき》をうけて死ぬ番だぞ」  道子もたまりかねたのだろう。両手で顔をかくして悲鳴をあげた。 「関森幽斎、君を……」  と一歩前に進んで声をかけた尾関|刑事《けいじ》の手首を英策はぐっとおさえた。 「なるほど、殺人罪では罰《ばつ》せまいが、恐喝《きようかつ》、いや脅迫罪《きようはくざい》では逮捕《たいほ》できるというのだろう。捕《とら》えるなら捕えて見い。今度死ぬのはそっちの番だ」  刑事もまさかとは思いながら、内心ではいくらか恐《こわ》くなったのかも知れない。英策の手をふりほどこうともしなかった。 「どうも、みなさん、邪魔《じやま》をしたな。この調子では上《あ》げてもらえまいから、わしは帰る。ただ、いまいったことはおぼえておけ」  幽斎は、鴉《からす》のような声でいいのこすと、くるりと身をひるがえして玄関《げんかん》を出た。 「先生、やっぱりあいつは、脅迫《きようはく》の現行犯《げんこうはん》で捕《とら》えましょうか」  尾関刑事は地だんだふんでいたが、英策は大きく首をふって答えた。 「僕には、止める権利はないが……ただ、殺人の証拠《しようこ》のほうはとれまいね。法律的には不能犯《ふのうはん》だ。もう少し、待って見たほうがよくはないかね?」   死因不明  しかし、尾関刑事は後で、警察官としての使命をあらためて自覚しなおしたらしい。  しつこく、幽斎に食い下がっていた野々宮から、英策が幽斎|逮捕《たいほ》の知らせを聞いたのは、その夜のことだった。 「脅迫罪《きようはくざい》は成立するでしょうが、殺人のほうはアリバイが完全に成り立ちますよ。私だって、証人になれるくらいですからね」  野々宮は、いくらか照れたような顔で、 「彼は昨夜《ゆうべ》は十二時半ごろまで、新宿《しんじゆく》のバーで飲んでいましたよ。それからまっすぐ御帰館《ごきかん》です。念のために、二十分ほど待って見《み》ましたら、大声で近所|迷惑《めいわく》な祝詞《のりと》などやりはじめましてね。念波《ねんぱ》はその時とばしたんですかねえ」 「時間的には、女の子をからかいながら、酒を飲みながら——ということになるだろうが、とにかくたいへんな狐《きつね》だよ」  英策は笑った。しかし、彼自身は、まだこの事件の真相には思《おも》いあたっていなかった。もちろん、念波《ねんぱ》とか霊波《れいは》とかいうものは信用できなかったし、医者の眼《め》さえあざむけるような痕跡《こんせき》を残さぬ殺人法には気がつかなかった。恵子はあくまで心臓の発作《ほつさ》による病死、幽斎の予言が的中したのも、偶然《ぐうぜん》の一致《いつち》にすぎまいと思ったのである。  後で調べたところでも、解剖《かいぼう》の結果、他殺の痕跡《こんせき》は発見されないということだった。  笠村医学博士の言葉も、それを裏書きしていた。菅原夫妻は、ずっと神田の店のほうに住んでいたのだが、健康を害したので、ちょうど人に貸していた家が空いたのを幸い、この|自由ケ丘《じゆうがおか》へ移《うつ》って来たというのである。  だから、博士が診察《しんさつ》を始めてから、まだ八か月にしかならないが、病気のほうは、べつに今日明日《きようあす》というような危険な状態ではなかったというのである。 「といって、心臓麻痺《しんぞうまひ》で死ぬことがあり得ないというわけではないのですよ。俗にポックリ病というのがあるでしょう。これなどは、それまで何の異常もなかった人間が、一夜のうちに、ぽっくり死ぬということから起こった名前です。これも医学的には原因不明の心臓麻痺ですが……あの奥《おく》さんの死因も、そんなものじゃありませんか」  と博士は尾関|刑事《けいじ》に語ったということだった。それでも、この刑事は執拗《しつよう》に食い下がって、金沢助教授のその夜の行動まで調べたが、こちらのアリバイも完璧《かんぺき》だった。彼はその晩友人たちと、マージャンをしていたのである。勝負は一時ごろまでかかり、それから酒を飲んで、その家に泊《とま》りこんだというのだから、念波《ねんぱ》や霊波《れいは》はべつとして、殺人をおかす機会はあり得なかった。  幽斎は、四十時間ほど警察にとめられたあげく、釈放されたという。誰か、右翼《うよく》関係の有力者からもらい下げがあり、その上に、係官たちが、さんざんわけのわからぬ御託宣《ごたくせん》になやまされて、手を焼いたためらしかった。  これがもちろん、殺人犯人と目《もく》される人物ならば、そんなわけには行くまいが、武器も持たず、実現不可能と思われる非常識な文句をならべての脅迫だから、警察としても、送検《そうけん》まではふみきれなかったのだろう。  こういう情報を非公式に手に入れながら、英策は自分でも数人の助手を使って、独特の調査を進めていた。最初の依頼《いらい》からは、ずいぶん狙《ねら》いの違《ちが》った線の調査だったが、そこに商売気をはなれた熱情がひそんでいたのである。  五日目の夕方、道子は英策の事務所を訪ねて来た。 「先生、いちおうお葬式《そうしき》も終りましたので、お礼をかねて上がりました」  という声からは、まだ恐怖《きようふ》の余韻《よいん》が去ってはいない。 「そうですか。それで、あなたはこれからどうなさるつもりです?」 「もちろん、金沢のところへ帰るつもりはございませんし、といって、こういうことがありましては、義兄のところに、いつまでも世話になっているわけにも行きません。アパートを借りて、そちらに移ることにしました」 「いつから?」 「義兄のほうも、この事件ではだいぶショックをうけたのでございましょう。一人になると淋《さび》しくなるなといっておりましたが、まあ男と女のことだから、世間から妙《みよう》な誤解《ごかい》をうけてもいけないと、わたくしの決心に賛成してくれたのでございます。ただ、四十九日とはいわないが、初七日《しよなのか》がすむまでは、いっしょにいてくれないかと申しますので、明後日《あさつて》まではむこうに泊《と》めてもらうことにしました」 「そうですか。そして、今後の御方針は?」 「まだきめてはおりません。でも、父の残してくれた財産も、わたくしの分だけで、二千万円ほどございますし、しばらくはだまっていても生活して行けましょう。そのうちに、またこれからの方針もきまって来ると思います」 「それで、春山《はるやま》さんと結婚《けつこん》なさるのですか」  道子は、はじかれたように眼《め》をあげた。真青《まつさお》だったその顔に、ぱっと一筋、血が走った。 「先生、先生はどうしてそれを?」 「べつに、念波《ねんぱ》の力でも何でもありませんよ。こういう町の探偵《たんてい》事務所でも、全力をあげて一つの問題にとっくめば、何日かの間にはこの程度の調査は出来るのです」  力なく首をたれた道子の姿を食い入るように見つめながら、英策は次の言葉を続けた。 「もちろん、私はそれをどうこうするつもりはありません。結婚している人妻が、夫のほかに恋人《こいびと》を作り、いずれはその相手と結婚しようと考えたとしても、善悪は問題にしていません。ただ、私のほうの調査では、この春山|馨《かおる》という人は、前の事業に失敗したときの借金も残っており、生活も楽ではないようですね」 「存じております……」  道子は蚊《か》の鳴くような声で答えた。 「私どものような私立探偵の調査では、表面にあらわれた事実の調べは出来ても、その裏にかくれている秘密までは、なかなかつかみかねるのですが……ただ、この結婚が、あなたの財産目あてだと、疑いをおこされる根拠《こんきよ》はないのですか?」 「先生……」  道子は、声に力をこめて答えた。 「わたくしのほうの財産は、姉たちに管理をたのんでおりました。金沢のほうは、ああいうことに凝《こ》り出す前から、経済の点にかけては弱くて、ぜんぜんたよりにならなかったのです。それに、今度わたくしがアパートへ移るとき、全額ひき渡してもらうことになっています。そのお金が、いつか全部なくなったとしても、愛情が、ほんとうの愛情がかわりに後に残るなら、わたくしとしては、思いのこすこともございません」  英策は眼《め》をとじて溜息《ためいき》をついた。本人にここまではっきりといいきられては、もう彼としては一言も口をはさむことは出来なかったのである。 「そうですか。いや、あなたがそこまで決心なさったのなら、もうそのことについては、何《なに》もふれますまい。ただ、この四、五日、いろいろと調べまわっているうちに、私にはぴんと来たことがあります。あと二日、長いことはいいません。あと二日だけで結構ですから、僕のいう通りに行動してくれますか?」 「それは、いったい、何のために?」  道子の顔には、またべつの不安が影《かげ》をおとしはじめたようだった。 「それは絶対必要なことです。あなた自身の命を守るために、そして、原因不明の最期《さいご》をとげた、お姉さんの仇《かたき》をとるためにです」   念波《ねんぱ》の刺客《しかく》  その夜、事務所を出ようとして、英策は何かふしぎな殺気を感じた。  外はもう暗くなっているから、なにが起《お》ころうとしているのか、肉眼にはよくわからない。ただ、剣道《けんどう》、柔道《じゆうどう》、合気術《あいきじゆつ》、そのほかいろいろの武術で鍛《きた》えあげた英策の感覚には、なにかの危険を告げる予感が、ぴりぴりひびいて来《き》たのだった。  英策は、ゆっくりと扉《とびら》を開け、あたりを見まわしながら、階段に足をかけた。  一段、二段、三段と石の階段をおりきったとき、横のほうに黒い人影があらわれた。  一瞬《いつしゆん》の余裕《よゆう》もなく、その男は、弾丸《たま》のように体をまるめて、英策《えいさく》のほうへ突進《とつしん》して来た。その右手に、刃物《はもの》の光を認めたのは、その一瞬後のことだった。 「野郎《やろう》!」  これがふつうの人間なら、この命がけの突撃をうけ流すことは、到底《とうてい》できなかったろう。たちまち、横腹《よこつぱら》をえぐられて、そのまま命をおとしたかも知れないが、そこはさすがに年期をかけた武芸が物をいったのだ。  敵の体は、英策にぶつかったと思う一瞬にぐるりと宙を廻転《かいてん》した。蛙《かえる》のように、鋪道《ほどう》の上にはいつくばった男の上に、馬のりになった英策は、すぐ敵の手を逆にとって、九寸《すん》の短刀をもぎとった。 「先生……」  一歩おくれて、事務所を出て来た池内佳子は、この思いがけない光景に、びっくりしてしまったのだろう。がたがた声《こえ》をふるわせながら、英策のそばへかけよって来た。 「何でもない。こちらはかすり傷ひとつおっちゃいないよ。こんなチンピラなんぞのドスでやられるようなおれじゃないさ」  池内佳子は、何もいわずに、また事務所の中へかけこんだ。秘書として、何年もつとめているのだから、そこは以心伝心《いしんでんしん》で、すぐ警察へ知らせなければと判断したのだろう。 「殺せ! 殺せ!」  組みしかれた男は、顔を歪《ゆが》めて、あわれな声でうめいていた。 「馬鹿《ばか》をいうな……こっちは正当防衛《せいとうぼうえい》だから手前《てめえ》を殺しても、無罪になるのは、わかっているが、むだな殺生《せつしよう》はしたくねえ」  といいながら、英策は相手のきき腕《うで》を、逆に逆にとねじあげた。 「畜《ちく》……畜生《ちくしよう》……」 「そういいてえのは、こっちのほうだ。警察じゃ拷問《ごうもん》は出来ねえが、これは正当防衛の一つだ。野郎《やろう》、手前《てめえ》は誰にたのまれた。誰にいわれて、おれの命をとろうとした?」  怒《いか》りを直接ぶちまけたこういう追求のほうが、かえって人権|尊重《そんちよう》の正式調査より効果があったかも知れない。相手はたらたら脂汗《あぶらあせ》を流しながら、 「念波《ねんぱ》だ……お前《めえ》を殺すように念波が働いたんだ」  と飛んでもないことをいい出した。 「念波? あの幽斎の狐《きつね》にたぶらかされたのか?」  パトロール・カーの警笛《けいてき》が、しだいに近づいてくるのを聞きながら、英策は低くつぶやいていた。  この犯人を、警官へそのままひき渡すと、英策はすぐ警視庁へむかった。  彼のいい意味のライバルである黒崎駒吉《くろさきこまきち》警部は、いまちょうど一日の仕事から解放されたところらしい。笑って煙草《たばこ》に火をつけながら、 「大前田さん、いつも元気で結構だな。今夜二人で、パイ一やろうか?」  とさそいかけた。 「いつもなら喜んでつきあうが、今日はそうしてもいられない。二十分前に殺されかけて、それで相談にやって来たんだ」 「何だって? あんたが……」  警部は眼《め》をまるくしておどろいていたが、英策はその前の椅子《いす》にどかりと腰《こし》をおろすと、一部始終を話して聞かせた。 「こっちは、こういう商売をしていることだから、どんなことで、外道《げどう》の逆恨《さかうら》みを買わないともかぎらない。しかし、あいつが、自分の予言を実現させるために、殺し屋までむけるとは思わなかったよ」 「うむ……これで、もし目的通り、あんたが殺されたとしたら、むこうも本当のたのみ手は白状《はくじよう》もしなかったろうからな。いや、あんたがそこまで泥《どろ》を吐《は》かせておいてくれなかったら、やっこさん、警察へ来てからもまだ、嘘《うそ》をいいつづけていたかも知れないな」  警部の顔色は暗かった。大きな溜息《ためいき》にのせて煙《けむり》の環《わ》を吐《は》き出すと、 「とにかく、本人の殺人未遂《さつじんみすい》は、今度こそはっきりしている。それに、いっぺん口を割りはじめたら、後は途中《とちゆう》で止めきれないのが、容疑者《ようぎしや》の通例だ。ちょっとでも、泥《どろ》を吐《は》いたなら、その幽霊《ゆうれい》——じゃない、幽斎を殺人教唆《さつじんきようさ》で逮捕《たいほ》する。調べの進行状態では、殺人未遂の共犯《きようはん》になるか知《し》れないが、あんたもそれで満足してくれるだろうな」 「僕はいい。あいにく、今日はうちから出している助手が、尾行《びこう》をしくじって、まかれてしまったものだから、いま彼がどこにいるかはわからないがね。こっちのほうは、それだけではなく、もう一つの殺人を防止しないと」 「金沢道子?」 「そうだ。敵は気ちがいじみている。いや、ほんとうの殺人狂《さつじんきよう》といっていいかも知れない。僕には念波《ねんぱ》をかけそこなって、ああいう刺客《しかく》を送りこんだのか知れないが、ほうっておくと、今度は彼女がやられるよ。それも、あの姉とおなじような、陰険《いんけん》きわまる方法でね」 「とすると、最初に姉が死んだのも、あなたの推理に従うと、病死や自然死ではなくて、他殺、殺人だというんだね?」 「その通りだ。あいにく、僕がその真相に気がついたのは遅《おそ》すぎた。火葬《かそう》になってしまった後の白骨では、もう証拠《しようこ》にも何にもならない……しかし、今度の殺人だけは、絶対に未然に防止して見せる。そうしなければ、男の意地がたたないのさ」  大前田英策は、いかにも男らしい笑いを浮かべた。   科学的な波  その翌日の夜おそく、道子は一人の男に送られて、周太郎の家へ帰って来た。 「わかりましたね」 「ええ」  道子は大きくうなずいて、玄関《げんかん》のベルをおした。男はいったん、女の方に背をむけて歩き出したが、決してこの家からはなれたわけではなかった。ぐるりと塀《へい》について横にまわると、勝手口《かつてぐち》の扉《とびら》をおし開けた。  それから、もう一度、庭の中を足音をしのばせて一巡《いちじゆん》すると、電灯のついていない部屋《へや》のガラス窓に手をかけた。どうしたことか、その部屋の窓は鍵《かぎ》がかかっていなかった。機械体操《きかいたいそう》のような要領で、この男が窓へはい上がり、家の中に姿を消したのは一瞬後《いつしゆんご》のことだった。  そのころ、奥《おく》の部屋では、周太郎と道子がむかいあって話を続《つづ》けていた。 「どうも、おそくなってすみません」  道子はていねいに頭を下げて、 「お金の計算はしておいて下すったかしら」  と、すぐに催促《さいそく》をはじめ出した。 「がめついねえ」  周太郎も苦笑いしていたが、すぐ手もとの鞄《かばん》をひきよせ、鍵《かぎ》をはずすと、その中から一枚の小切手をとり出した。 「あわせて二千六百三十二万八千五百円——計算書はこっちにあるから、危ないからこの通り小切手にした。これを見れば、安心したろうが、念のために、明日の朝まで預かっておいてあげる」 「すみません。いろいろお手数をかけました」 「こっちは、あたりまえのことをしただけだ。これだけの資本で、大分儲《もう》けさせてもらったよ」  周太郎は笑って、小切手を鞄にいれ、 「お風呂《ふろ》へ入って、今夜はよく寝《ね》るんだね。あとで、お別れに一杯《ぱい》やろうよ」  といった。 「はい……」  道子は素直《すなお》に答えて立ち上がった。  周太郎は、煙草《たばこ》に火をつけて、その後姿を見送っていたが、襖《ふすま》が閉《しま》った瞬間《しゆんかん》、その両眼は、とたんに恐ろしい光をはなちはじめた。  女に対する獣性《じゆうせい》——というよりも、もっと思いつめた、もっと凄《すご》い、殺気さえおびた光だった。  一本、二本と煙草を煙《けむり》にしてから、彼はゆっくり立ち上がった。  廊下《ろうか》へ出て、風呂場《ふろば》の外までやって来ると、 「どうだい、湯加減は?」  と、やさしい声で聞いた。 「ちょうどいいわ」  中からは、あわてたような声が聞こえた。周太郎は、歪《ゆが》んだ笑いを浮《う》かべながら、台所へ入って行った。そして、壁《かべ》のスイッチの一つに手をかけようとした。 「動くな!」  鋭《するど》い男の声が聞こえたのは、その次の瞬間《しゆんかん》だった。はっとふり返った周太郎の眼《め》の前には、大前田英策が、仁王立《におうだ》ちに立ちはだかっていた。 「どうして……どうして?」 「道子さんに入れてもらったのだ。住人の許可さえあったなら、家宅侵入罪《かたくしんにゆうざい》は成立しない。ただ、そちらの殺人未遂《さつじんみすい》の罪は、一秒前に成立した」 「何だって!」 「そのスイッチをひねったら、風呂《ふろ》の中へ電流が流れたろう。もちろん、百ボルトの電線にさわったところで、人間たいてい死にはしない。ただ、全身を濡《ぬ》らして、風呂へつかっているときに、電流を流しこんだなら、たいていは命とりになる」 「…………」 「それに、これが殺人方法としてすぐれているのは、解剖《かいぼう》しても痕跡《こんせき》がはっきりしないことだ。局部的な電流の流れがあれば、熟練した監察医《かんさつい》には、すぐわかるそうだが、全身に弱電流を通じられたのでは、ちょっと見わけがつかないという。貴様《きさま》は、それで姉を殺し、いままた妹を殺そうとした。死体をそのまま、風呂の中に残しておいたのでは疑われるかも知れないけれど、死体に寝間着《ねまき》を着せて布団の中へ入れておけば、なるほど、たいていの医者だったら、ポックリ病としか診断《しんだん》はしないだろう」 「嘘《うそ》だ! みんな、きさまのでっちあげだ!」 「そうかねえ、とにかく、そのスイッチをひねると、どういうことになるか、その配線を専門家が見《み》たらいっぺんにわかるだろう。それに、道子さん、お金はうけとりましたか」 「小切手で」  洋服のまま、廊下《ろうか》へ出て来た道子は、声をふるわせて答えた。 「なるほど、小切手とは考えたな。何億、何千万の金額も、自分で勝手に書きこめる……ただ、それだけの預金が銀行になかったら、それは鼻紙にさえならない。いちおう、道子さんを安心させて殺してしまえば、そして小切手を破いてしまえば、そんなものは、切らなかったも同然だ」  板の間に崩《くず》れおちた周太郎の姿を見つめて、英策は鋭《するど》く声をかけた。 「さあ、立て。おれといっしょに警察へ自首して出ろ。そうすれば、絞首刑《こうしゆけい》だけは助かるだろうからな」 「僕個人としては、死刑にしてやりたかったのは山々だが、すなおに泥《どろ》を吐《は》かせるには、命だけ助かる保証をしてやるほうが早いと思ってね」  その翌日、黒崎警部を前にして、英策は男性的な笑いを浮《う》かべながらいった。 「人情家だよ。あんたという人は」  警部もつりこまれたように笑った。 「とにかく、動機は金だったらしいな。彼は相場に失敗して、たいへんな損を出したらしい。高利貸から金を借り、その催促《さいそく》で苦しくなって来たときには、人間はよく、とんでもないことをやりだすものだ。それにはいくらも例がある。たとえば、本山《もとやま》事件などがその一例だが」 「たしかに狂《くる》ってしまうのだね。目先の苦労を逃《に》げようとする、その一事だけに集中するあまり、ほかのことは何ひとつ見《み》えなくなってしまうんだね。それで、彼と幽斎との間の関係は?」 「思ったよりも深いらしい。まあ、小便が赤くなるほどぶちのめされたとき、人間の力を越《こ》えたなにかの神秘な力にすがりたくなるのは、誰しものことだが、幽斎はその弱みにつけこんで、彼をぐんぐんおしまくり、殺人でもおかすしかないという心境に追いこんだらしいね。あんたみたいな心身強健な人間を相手にしては、効果もないだろうが、幽斎は催眠術《さいみんじゆつ》の名人のような強烈な暗示力を持ちあわせていたんじゃないのかな。もっとも最初の殺人を無事に終った後で、道子まで殺してその財産を半分よこせ——と脅迫《きようはく》された時には、彼も頭に来たらしいが」 「そちらだけでも未遂《みすい》に終ってまだよかったよ。殺人方法そのものは科学的に説明できた。電流も一種の波動には違いないからね。ただ、幽斎という男は、ほんとうの精神異常者だ。ああいう男こそ、絞首台《こうしゆだい》に追いあげるか、それともどこかに一生|監禁《かんきん》してやらないと、社会に及ぼす害毒はそれこそ測り知れないよ」 「全くだ。彼はいま、全国指名手配になっている。あの風態なら間もなく捕《つか》まるだろうが、自分が殺した、殺したといいはった殺人事件で捕まるのだから、彼もおそらく本望だろうよ」  蛇《へび》の罠《わな》   スネーク・ショー  四月も末のある日のことだった。  私立探偵《しりつたんてい》、大前田英策《おおまえだえいさく》は、若い娘《むすめ》といっしょに、「青い花」というナイト・クラブの片隅《かたすみ》に坐《すわ》っていた。といっても、妻の竜子《りゆうこ》の眼《め》を盗《ぬす》んで、浮気《うわき》の愉《たの》しみにふけっていたわけではない。  この娘は秀村玲子《ひでむられいこ》といって、むかし彼が世話になった秀村|専一郎《せんいちろう》という事業家のわすれ形見《がたみ》だった。子供のころから、よく英策になついていて、今でも時々、彼のところへ人生相談を持ちかけてくる間柄《あいだがら》だったのである。  この三月、玲子は女子大を卒業したばかりだった。結婚《けつこん》の話もいくつか持ち上がっているらしいが、いまのうちに、いろいろと社会学を身につけておきたいといって、英策にせがんで、ナイト・クラブ見学ということになったのである。  ジン・フイズのせいで、眼のふちをぽっと染めている玲子は、さっきから、まだ子供っぽい、陽気なはしゃぎ方をしていたが、英策の鋭《するど》い眼は、その胸の中に、なにかの心配ごとがひそんでいるのを、見ぬいていた。  ただ、この場でそんなことにふれるのは、いかにも場違《ばちが》いな感じだった。むこうからいい出さないかぎり、英策もあたりさわりのない話をするしかなかった。 「どうだい、感想は?」 「わたし、もっとお下品な所かと思っていたの。案外だったわ」 「ははは、最近の若い娘さんは、たいていのものにはおどろかないからね。ところで、玲ちゃんはストリップを見たことがあるかい?」 「いや、ないわよ。おじさまはファンなの?」 「いや、断じてかぶりつき党じゃないがね。そんなら玲ちゃんも今度はおどろくかな?」  英策がそういっているうちに、ステージにさっとライトが走り、音楽のリズムにのって、ボリュームたっぷりのヌード・ダンサーが登場してきた。その腹から乳房《ちぶさ》、胸から首にかけては、青黒いだんだら模様の二匹の蛇《へび》がうごめいている。 「ほう、スネーク・ショーか? ひところにくらべると大分下火になったが、ひさしぶりにみると、なんとなくなつかしいねえ」  英策が馬脚《ばきやく》をあらわしたようなひとりごとをもらして、玲子のほうをふりかえると、今まではしゃいでいたその顔は、妙《みよう》に青ざめ、激《はげ》しい不安にかげっていた。 「どうしたんだ? 蛇はきらいかい?」  玲子はぴくりと身をふるわせ、眼《め》をふせてかすかにうなずいた。  英策もちょっとふしぎに思った。  たしかに蛇という生物は、あまり気持のいい動物ではない。人によっては、玩具《がんぐ》の蛇を見ただけで、とび上がる人間もいないではないが、玲子がそれほど蛇ぎらいだという話はいままで聞いたこともなかったのである。 「どうしたね。蛇に関係したことで、なにかいやな思い出でもあるのかね?」  玲子は、じっと英策の眼を見つめて、 「おじさま、ここ出ません? わたし、御相談があるんです。いままで、話そうか話すまいかと、迷っていたんですけれど……」 「よかろう」  ショーには多少心のこりがしないでもなかったが、さっきからの玲子の様子に、不安を感じていた英策はすぐ席を立った。ショーが始まったばかりで出て行く客は珍《めずら》しいのか、ボーイが怪訝《けげん》そうな顔で二人を送り出した。  近くの喫茶店《きつさてん》の、がらんとした二階へ上がると、玲子はためらいがちに、 「実はおじさま……わたし、半年ほど前から、好きになった人がいるんですけれど……岸本信明《きしもとのぶあき》さんといって東邦《とうほう》大学の生物学の講師なんです。とてもまじめな、それでいて、固苦しくもないし、感じのいい方で、お知りあいになると、わたしすぐに……」  と打ち明け話をはじめ出した。 「おのろけもいいが、それで彼氏《かれし》と蛇の関係は? 専攻《せんこう》が爬虫類《はちゆうるい》だというのかい?」 「いいえ、あの人の専門は両棲類《りようせいるい》で、鰐《わに》ならともかく、蛇は専門じゃありません」 「それなら、なぜ?」 「わたし……うまくいえませんけれども、どうも妙《みよう》なところがあるんです」 「妙なところ?」 「ええ、あの人は自分の家のことを話したがらないんですの。もう婚約《こんやく》をしても——というところまで来ているのに、一度もわたしを家へつれてってくれたことがないんです。こっちから訪ねようとしても、いまとりこみ中だとか、病人がいるからとかいって、もう少し待ってくれ——と断わってばかりいるんです。ですから、わたし、あの人の家庭についてはなにも知らない始末なんです」 「なるほど、それでは最後のふみきりもつけられないね……ただ、そういうことなら、こっちの商売だ。玲ちゃんのためなら、ただで調査してあげるよ」 「そう思ったんですけれど、実は自分でそっと家を見に行ったんです」 「おやおや、いつの間にか、僕の感化をうけたらしいな。それで?」 「行って見たら、とても大きなお家で、ちっとも恥《はず》かしがるようなことはないんです。ただ、なんとなく妙《みよう》なんです。ちょうど夕方だったせいでしょうか、外まわりを見ただけでも気持が悪くって……幽霊《ゆうれい》かなにかが出そうな感じなんです」 「まあ、そういう家はあるものだよ。それで中へは入らなかったんだね?」 「ええ、どうしようかと思って、家の前を行ったり来たりしていたのが、人目についたんでしょうか。いきなり後ろから声をかけられたんです。『あんたも、ニョロ公が好きなの?』それが、さっきの女の人でした」 「さっきの女」 「スネーク・ショーのあの人ですわ。たしかにそうです。メーキャップはしていますが、顔つきはたしか間違《まちが》いありません」 「それで、あんなにおどろいたのかい?」 「ええ……そのとき、あの女は少し酔《よ》っているようでした。そのせいで、悪戯《いたずら》がしたくなったのかも知れませんけれど、わたしを見てにやにや笑うと、いきなりハンドバッグから小さな蛇《へび》をつかみ出したんです。わたしも真青《まつさお》になって逃《に》げ出しましたけれども、ふりかえって見たら、あの女が、岸本さんの家へ入って行くところだったんです」 「うむ、なるほど……」 「そのとき、わたしも初めて思い出したんですけれども、二か月ほど前に、もう一つおかしなことがあったんです。あの人が、上野《うえの》の動物園へ行こうというんですの。デイトの場所にしては風変わりだと思いましたが、なにしろ専門が専門ですから、わたしも妥協《だきよう》したんです。ところが、あの人といったら、ライオンだの象《ぞう》だのには眼《め》もくれないんですの。蛇のところに、立ちっきりになっているんで、わたしもだんだん気持が悪くなって来ました。そしたら、『玲子さんは、蛇がきらいですか』と、真剣《しんけん》な顔をして聞くんです」 「なるほど、それで?」 「わたしはいってやりましたわ。『あたりまえ。蛇の好きな人なんか、いるでしょうか』そうしたら、ひどく深刻な顔をして、蛇をこわがるのは、人間の原始的本能で、それは不合理な考え方だとかなんとか、動物園を出るまで、そんな話ばっかししているんです。その時は、わたしもうんざりしたんですけれど」 「なるほど……ただ、そんな事件があっても、玲ちゃんは彼氏《かれし》が好きなのかね?」 「ええ、わたし……」  玲子は頬《ほお》を染めてうつむいた。英策はその顔を見つめて、溜息《ためいき》をつきながらいった。 「わかった。僕に任《まか》せておきたまえ」   蛇《へび》の館《やかた》  翌日の夜、英策は世田谷《せたがや》の奥《おく》にある岸本家を訪ねて行った。玲子の代理として、ぜひとも自宅でお眼《め》にかかりたいと、大学の研究室へ電話をかけ、強引《ごういん》に承諾《しようだく》させてしまったのである。  ただ、その家の前に立ったときには、英策もいやな感じがした。敷地《しきち》は広く、建て物は古かった。まさか、鹿鳴館《ろくめいかん》当時までは行くまいが、大正時代の建築なのだろう。木造二階建の洋館は、折からの強風に、ぎいぎいきしんでいるようだった。  英策も職業が職業だけに、人一倍、感覚は鋭《するど》いほうだから、この家にはなにか、人に知られていないような秘密がひそんでいるように思われてならなかったのである。  岸本義一《きしもとぎいち》と表札《ひようさつ》のかかっている門のベルをおして、ちょっと待っていると、田舎《いなか》育ちらしい感じのお手伝いが顔を出した。  英策はすぐ、応接間|兼書斎《けんしよさい》といった感じの洋間へ通された。壁《かべ》はすっかり本棚《ほんだな》になっていて、その本もほとんど横文字ばかり、いかにも科学者の部屋《へや》らしい感じだった。 「お待たせしました。岸本信明です」  間もなく、部屋へ入って来たのは、三十ちょっと前と思われる青年だった。  背もすらりとして高く、眼鼻《めはな》だちもよくととのっている。少し浅黒い顔色は、なにかのスポーツで鍛《きた》えたようなタフな感じだった。  英策が予想していたような、偏執狂的《へんしゅうきようてき》な感じはどこにも見られなかった。なるほど、これならば、玲子が好きになりそうなタイプだと、英策は思ったのである。  肩書《かたがき》ぬきの名刺《めいし》を出して、英策はかんたんに挨拶すると、すぐ本題に入った。 「生物学をおやりだそうですね」 「はあ……」 「御専門は爬虫類《はちゆうるい》でしたか?」 「違《ちが》います。私の専攻《せんこう》は両棲類《りようせいるい》です」 「そうでしたか。それでは、蛇《へび》のほうは、お父様の御専門でしたね」  このぐらいのことは、昼《ひる》の間に調べていたが、岸本信明は、その時、英策の素姓《すじよう》に気がついたらしい。 「大前田さん、あなたはたしか、私立探偵《しりつたんてい》のお方でしたね?」  と逆に問い返した。 「御存知でしたか。いや、なにも私はおかくしするつもりはなかったのです。それに、おことわりしておきますが、私は今夜はそういう職業的な立場をはなれて、あくまでも秀村玲子君の代理としてまいったのです」 「わかりました」  信明はいくらか沈痛《ちんつう》な調子になった。 「かくすべきではなかったのです。蛇というものに、あんまりこだわりすぎたので、あの人も不審《ふしん》に思ったのですね。それで、あなたに調査をたのんだのですか」 「まあ……」 「私は家を出るつもりでした。父は父、私は私、その上で玲子さんになにもかもうちあけるつもりでいたのです。妙《みよう》にいいそびれてしまった私が悪かったのですね」 「べつにいいとか悪いとか……」  と英策がいいかけた時だった。ノックもせずに一人の男が、転《ころ》がるように部屋《へや》へとびこんで来た。 「たいへんだ……お父さんが……」  骨ばった下品な顔を恐怖《きようふ》に歪《ゆが》めて、その男はあえぐようにいった。 「蛇《へび》に……あの蛇の部屋で……」 「なんだって?」  信明は、はじかれたように飛び上がると、いきなり廊下《ろうか》へかけ出した。英策も、衝動的《しようどうてき》にその跡《あと》を追った。  廊下をいくつか折れ曲って、つきあたりに来たところで、信明はドアのノッブをひいた。むっとするような熱い空気が流れて来た。信明は、息を呑《の》んで、その場に棒立ちになってしまった。  そして、たいていのことには動じない英策も、その肩《かた》ごしに、この部屋の中をのぞきこんだときには、思わず声をあげていた。  奥《おく》のほうへ細長くのびている部屋の右手には、大小さまざまな蛇を集めたガラスのケースが、ずらりとならんでいたが、いま英策の眼《め》をうばったものは、もっと恐ろしい光景だった。左手のガラスばりの床《ゆか》の上に、たっぷり二メートルはあると思われる、黒白《くろしろ》まだらの醜怪《しゆうかい》な蛇が、くねくねと長い体をくねらせ、そのそばに、五十歳ぐらいの白衣の男が、うつぶせに倒《たお》れていたのである。 「あれは、毒は?」  英策は、思わず声をふるわせてたずねたが、それに答えたのは、信明ではなく、さっきの骨ばった顔つきの男だった。 「大ありですよ。あれはキング・コブラです」  英策は、とたんに放心《ほうしん》したようにつっ立っている信明を廊下《ろうか》へひきずりだして、ぴしゃりとドアを閉《と》じ、大きな溜息《ためいき》をついた。  相手が人間だったら、恐怖《きようふ》というものを感じたこともない英策でも、毒蛇となると話がべつだった。こういうものにとびかかられては、得意《とくい》の合気道《あいきどう》も役にはたたない…… 「恐ろしい、恐ろしい事故ですね……」  英策が冷汗《ひやあせ》とともにつぶやいたとき、この男は突然《とつぜん》、思いがけないことをいい出した。 「事故ですと? これが……とんでもない。これはりっぱな殺人ですよ。蛇を使った人殺しです。誰かが、わざと蛇をケースから出して、先生にかみつかせたんです。それに違《ちが》いはありませんとも」   和製ヨギ 「失礼ですが、あなたはどういうお方です」  鋭《するど》く英策は切り返した。 「これはどうも……申しおくれまして……坂井道則《さかいみちのり》と申します。大前田先生、以後はよろしくお見知りおきを」  この男が、どうして自分を知っているのかなどという詮索《せんさく》をしている場合ではないので、英策は単刀直入《たんとうちよくにゆう》に、 「では坂井さん、あなたはなぜ、これが殺人だと断定なさるのです?」 「なんの用意もせずに、たった一人で、毒蛇のケースの戸を開けることは、絶対に考えられないからです。先生ともあろうお方が、そんな馬鹿《ばか》げたまねをなさるはずはありません。あそこに熊手《くまで》はありましたが、袋は見あたりませんでしたね」  坂井道則は、笑っているのか、泣いているのかわからないような表情でいった。 「なんです? その熊手とか袋とかいうのは」 「袋は袋、蛇を入れるズックの入れ物です。熊手というのは、長い棒の先に二股《ふたまた》をとりつけたもので、蛇をおさえつけておくのに使う道具ですよ。ほら、あそこにおちているでしょう。気がつきませんでしたかね?」  坂井道則はそういうなり、さっとドアを開いた。英策はあわててドアを閉めなおした。 「はははは、案外臆病《あんがいおくびよう》ですね。それほど神経質になることはありませんよ」  坂井道則は喉《のど》の奥《おく》で変な笑い声をたてたが、笑っている場合ではないと思ったのか、すぐ真顔になって、 「ねえ、若先生、そうでしょう? キング・コブラをあつかうのに、なんの準備もなしに、一人でやることはあり得ないでしょう。誰かが先生を昏倒《こんとう》させて蛇を出したんでしょう」 「そそ……そうですね」  信明もどうしていいかわからないらしい。真青《まつさお》な顔をしたまま、放心したような口調で答えた。 「坂井さん、あなたも蛇の研究家ですか?」  英策は鋭《するど》くたずねたが、相手は大きく首をふって、 「研究家? いや、それほど高級なものじゃありません。私はただの蛇使いですよ」 「蛇使い?」 「ええ、インド人に化けて、蛇をあつかうんです。サーカスの一座に仲間入りすることもありますし、ショーに出ることもあります。日本ではあまりない商売なので、結構かせげましてね。芸名はヨギ・アショラクルマ——このインド名前はでたらめですが……」  英策もこの饒舌《じようぜつ》にはいらいらした。 「とにかく、蛇《へび》を使うのなら、なんとかしてあいつをもとのケースへもどしちゃくれませんか」 「ああ、なるほど、そうでしたね。ただ、犯罪の現場は、警察が来るまでは、いじらないほうがいいんじゃありませんか」 「それは、時と場合によりけりです」  英策は癇癪玉《かんしやくだま》が破裂《はれつ》しそうになるのを、じっとおさえて、 「僕が全責任を持ちますから、まず蛇を始末して下さい。これでは医者も警察も……」 「まあ、先生が死んでいるのはたしかでしょうね。コブラの毒はまわりが早いですから。ところで、若先生、松岡《まつおか》君は?」 「いま、出ている……」 「それじゃあ、手伝ってもらえませんね。若先生、おねがい出来ますか?」 「う、うむ……」  まるで、どっちがこの家の主人かわからないような具合だった。坂井道則は、さっさと隣《となり》の部屋《へや》へ入り、熊手《くまで》と称する道具を二本持って来た。そして、その一本を信明にわたすと、平気な顔でドアを開け、蛇のいる部屋へふみこんだ。  英策も思わず息をのんだ。コブラの平たい頭がすーっと持ち上がった。いまにも、この男にさっと飛びかかって行くのではないかと思われた。  しかし、坂井道則は顔色ひとつ変えず、熊手を使って蛇《へび》をおさえつけ、岸本信明といっしょに、しごく簡単に蛇をケースの中へ追いこみ、きっちり戸を閉じてしまった。  もちろん、かんたんなように見えても、なにかのこつはあるのだろうが。英策も冷汗《ひやあせ》を流していた。いつもの勇気は、どこかへ消えていたのである。 「やっぱり、だめなようですね」  坂井道則は倒《たお》れている男のそばにかがみこんで、ぽつりとつぶやいた。自分の父が死んだというのに、岸本信明は、まだ悪夢《あくむ》でも見続けているように、呆然《ぼうぜん》とつっ立ったままだった。 「助かる見込みはないのですか?」  英策はおそるおそる、この部屋に足をふみこみながらたずねた。 「もう血清《けつせい》もなにも間にあいませんね……誰がしたのか知れませんが、惜《お》しいお方を殺したものです……世間では変人だといっていましたが、この道にかけては、日本一のオーソリティーだったのに、いったい誰が……」  彼はきらりと眼を光らせた。 「いったい誰が、この罪もない、善良《ぜんりよう》な先生を殺したのでしょうね?」  罪もない、善良な——という言葉が、英策の耳には、いかにも奇妙《きみよう》に聞こえた。  眼の前にずらりとならんだガラス箱《ばこ》の中の、邪悪《じやあく》そのものといいたいような、無数の蛇を見ているうちに、胆力《たんりよく》では人後《じんご》におちないはずの英策でも、背筋が冷たくなって来たのである。  科学の研究はもちろんりっぱなことだろうが、こういうものを自宅に飼《か》っている人物というのは、脳神経のどこかが狂《くる》っているか、邪悪なものを喜ぶ異常感覚の持主か、どちらかに違《ちが》いないと思ったからだった。   呪《のろ》われた研究  これが殺人だという坂井道則の主張は、たしかに根拠《こんきよ》もありそうだったので、英策はすぐ、電話で警察へ連絡《れんらく》をとった。  その到着を待つあいだ、彼は頭に、自分が調べあげた事実を思いうかべた。  岸本義一は、蛇《へび》に憑《つ》かれた学者だった。相当な遺産《いさん》をうけついでいたのを幸い、一生をこの気味わるい生物の研究にささげたのだ。  もっとも、彼は学問的な才能には、それほどめぐまれていなかったらしい。たいした研究論文も発表したことはなく、学界では、「岸本君は、ただの好事家《こうずか》だよ」と軽蔑《けいべつ》している声も、相当にあるようだった。とはいっても、この道一本で生きて来ただけあって、この世界では「蛇博士」といえば知らないものもなかったらしい。興業師や、蛇屋などとも、商売をはなれたつきあいもあるようだった……  岸本信明は、義一の実子ではなく、養子だった。むかしの友人の子供をひきとり、本物の動物学者にして、自分の研究の後継者《こうけいしや》に仕立てあげようとしたのだ。  だが、その目的は、半分しか達成《たつせい》されなかった。信明は生物学者にはなったが、蛇はどうしても性《しよう》にあわず、両棲類《りようせいるい》の研究をやっているのだ。蛇でも鰐《わに》でも似たようなものではないかというのは、素人《しろうと》考えで、専門家としては、自然と興味の対象《たいしよう》が違《ちが》って来るのだろう。 「大前田さん、私の悩《なや》みがおわかりですか。こんな変わり者の父を持ち、その上、こんな蛇屋敷《へびやしき》に住んでいるとわかったら、玲子さんはすっかり気味わるがって、私を相手にしなくなるだろうと思ったのです。といって、今まで大恩をうけて来た養父をほうり出して、家を出てしまう決心もつかず……私は大いになやんでいたのです」  英策の心を読んでいるように、信明はぽつりといった。しごく、もっともな話で、英策の本来の訪問の目的からいえば、万事《ばんじ》かたがついたということになるが、こういう成行きになっては、引込《ひつこ》みもつかなかった。 「それでは、この家を訪れて来たスネーク・ショーの女も、お父さんのお知合いだったのですね」 「吉野《よしの》マリさんですか……そうです。父は蛇の好きな人間だったら、どんな相手でも、見さかいなくつきあっていましたから」  信明は眉《まゆ》をひそめて答えたが、その時、坂井道則は、奇妙《きみよう》なうす笑いを浮かべていった。 「たとえば、私のようにいかがわしい人間でも、わがもの顔に、家に出入りしたりしていましてね……それも先生の御人徳《ごじんとく》でしょう。私や、吉野マリのような手合《てあい》でも、気安くおつきあい願えるようなお方でしたからねえ」 「大前田さん、あんたが妙《みよう》な事件に首をつっこんで、仏《ほとけ》を発見することは今さら珍《めずら》しくもないが、今度という今度は、またおそろしく奇妙《きみよう》な殺しにぶつかったもんだね」  警視庁から飛んで来た捜査《そうさ》一課の黒駒《くろこま》親分、黒崎駒吉《くろさきこまきち》警部は溜息《ためいき》まじりにいい出した。いかに百戦練磨《ひやくせんれんま》のこの警部でも、こういう毛色《けいろ》の変わった事件では、どこからどう手をつけたらいいか、思案《しあん》にあまったのだろう。 「まったくいやらしい事件だよ。こっちも蛇《へび》が相手じゃ、どうも勝手が違《ちが》ってね」 「まあ、究極の相手は人間だろうがね。係の者の話では、死体の鼻腔《びこう》のあたりに、かすかにクロロホルムの臭《にお》いがしたということだ。これが殺人だということには間違《まちが》いはなかろうが、ところで事件が起こったとき、この家にいたのは誰と誰なんだね」 「被害者《ひがいしや》をのぞいて四人だ。岸本信明、坂井道則、お手伝いの植田良江《うえだよしえ》に僕さ。坂井道則は、家族同様に、この家へ始終出入りしているものだから、べつに客あつかいもされず、岸本義一が蛇《へび》の部屋《へや》のとなりの部屋で、何か一仕事している間、応接間で雑誌を見ながら待っていたといっている。それで、あんまり時間がかかるので、様子を見にいったら、ああいうことになっていた——と、こう申したてているのだがね。お手伝いのほうは、台所のそばのお手伝い部屋にいたが、このさわぎには、ぜんぜん気がつかなかったそうだ……何しろ、ここの家のお手伝いの月給は、ふつうの家の三倍ぐらいだそうだが、彼女は蛇の部屋のほうへは、ふだんからぜんぜん寄りつかなかったらしいよ」 「なるほど、それじゃあ、大前田さん、これは割合かんたんに……」 「ところが、そうかんたんには割りきれないのだ。岸本義一の部屋にはドアが二つある。一つは廊下《ろうか》に、一つは蛇の部屋へ直接通じている。ほかにヴェランダへ出る出口があってガラス戸が開いていた。ということは、犯人が外部からやって来た可能性もないではないということだね」 「なるほど、それで大前田さん、この家の家族については調べて見たかね?」 「ああ、そっちの縄《なわ》ばりを荒すようで悪いと思ったけれども、時間があったものだから、一通りは調べておいた」 「縄ばりなんぞ気にすることはないとも。かえってこっちは、手間がはぶけて助かるくらいだ。それで?」 「岸本義一、信明の親子のほかに、義一の妹の小野寺満代《おのでらみつよ》という女がいるそうだ。年は四十二、亭主《ていしゆ》に死にわかれて、行き場がないものだから、こうして兄貴《あにき》の家に身をよせているのだね。今晩は映画を見に行ったらしい。それから、蛇の飼育《しいく》係で、松岡安男《まつおかやすお》という男——これも今夜は外出中だ。それに、さっき話したお手伝いを加えて、合計五人が、この家に住んでいるというわけだね」 「なるほど、スネーク・ダンサーでもないかぎり、女じゃ蛇はあつかえまいから、その松岡とかいう男がくさいかな」  警部がひとりごとのようにいったとき、警官が二人の男女をつれて入って来た。  女のほうは、ひどくやせていて、妙《みよう》にぎすぎすした感じの眼《め》つきだった。男のほうは、年は女とおなじぐらいだが、やはりやせ型の、ひょろりとした体つきだった。 「小野寺満代——岸本義一の妹でございます。わたくしがちょっと留守をした間に、とんだことになりましたとか」  まるでひとりごとのようにこういうと、女はハンカチを眼にあてて身をふるわせた。 「私は佐川敬二郎《さがわけいじろう》と申しまして、故人《こじん》の甥《おい》にあたります」  男のほうは、割合しっかりした声でいうと、警部たちへむかって頭を下げた。 「ちょっと叔父《おじ》に用事がありましたので、ここへやって来る途中《とちゆう》、叔母《おば》にあったのです。なにも知らなかったので、びっくりしたのですが、いやもう、なんとも恐ろしいことになったものです。ああいう、いやなものを飼《か》ったりしていれば、ろくなことにならないと前から思っていたのですが……」  と、かるい皮肉をまじえていった。 「いま、信明君にちょっとあったら、他殺の疑いがあるという話でしたが……」  警部は重々しくうなずいた。 「まことに御愁傷《ごしゆうしよう》さまですが、その通りです。ところで、あなたは、蛇の研究には興味をお持ちではないのですか」 「いいえ、とんでもありません。私は小さな商事会社を経営しているただの商売人で、蛇とは縁《えん》もゆかりもありません。ああいう物を見ただけで、鳥肌《とりはだ》がたって来るほうです。まったく.あんな物が好きというのは、正気《しようき》の沙汰《さた》では……」 「敬二郎さん!」突然《とつぜん》、満代はヒステリックな叫《さけ》びをあげた。 「兄の好みをとやかくいうのはよして下さい! 好き嫌《きら》いというものは、他人にはわかりません。わたくしも蛇はきらいですけれども、兄を精神異常者あつかいするのは……」 「叔母さん、僕は口をすべらしただけですよ。決して精神異常者あつかいなんて」 「いいえ、そうにきまっています。わたしにはあなたの本心はよくわかっています! 親類の誰もがよりつかない中で、あなただけはよく訪ねて来て下さいましたが、本当のねらいは自分のためでしょう。兄をだまして、自分の仕事に金を出させようと……」 「叔母さん、いい加減にして下さい」  佐川敬二郎は、額《ひたい》に青筋をのたくらせた。 「僕はこれでも、世間にうといあなた方のために、いろいろ骨を折ってあげたつもりですよ。それなのに、人前、それも警察のお方の前で、いまの言葉はなんたることです」 「まあまあ、喧嘩《けんか》はよして下さい」  黒崎警部もあわてて止めに入ったが、満代は甲高《かんだか》い金属的な声でわめきつづけた。 「かわいそうな兄さん……変な取り巻きたちには利用され、身内《みうち》からは馬鹿《ばか》にされ、息子《むすこ》からまで毛ぎらいされて……みんなが、みんなが悪いんです。みんなでよってたかって、兄を殺してしまったんです!」  理屈《りくつ》もなにも通らないヒステリーじみたせりふをならべて、満代はわっと泣きくずれてしまった。   女の証言《しようげん》  正式の尋問《じんもん》が始まり出したので、英策は警部の部屋《へや》をはずしたが、廊下《ろうか》で四十歳ぐらいのずんぐりした体つきの男とすれ違《ちが》った。男は上眼《うわめ》づかいに、じろりと英策を見つめた。だいぶ酔《よ》っている様子だが、その眼は蛇《へび》を思わせるようないやな感じだった。  松岡安男だな——と英策は一瞬《いつしゆん》に悟《さと》った。 「君は今晩、どこへ行っていたんだね?」  とたずねると、そばについている警官は苦い顔をした。それでも、なんともいわなかったのは、英策と警部との関係をよく知っていたためだったろう。 「はい、今晩は月給をいただきましたんで、一杯《ぱい》ひっかけてまいりました」  英策を刑事《けいじ》かなにかと思ったのか、相手は神妙《しんみよう》な調子で答えた。 「どこで飲んでいたんだ?」 「すぐそこの『角屋《かどや》』という酒屋でです。酒場だの、料理屋だのいうところへは、出入りできる身分じゃありませんから」 「大前田さん、もうよろしいですか」  警官がとうとう口を出した。自分たちが調べる前に、廊下で尋問を続けられては、顔にかかわると思ったのだろう。  その夜、英策は「青い花」の楽屋《がくや》へ吉野マリを訪ねて行った。幸い、ここの支配人とは知合いだったから、このぐらいの顔はきいたのだ。 「わたしにどんな御用なの?」  むせ返るような体臭《たいしゆう》と、蛇《へび》の青くさい臭《にお》いをただよわせながら、全裸《ぜんら》に近いこの女は、不審《ふしん》そうにたずねた。 「岸本先生、お父さんのほうがなくなられたことを知っていますか?」  青黒い影《かげ》が、電光のようにその顔をかすめた。ぽたりとルージュを手からおとして、 「ほんとう? それはいつ?」 「今晩です。僕は現場からすぐにこっちへかけつけて来たばかりですがね」 「どうして? 脳溢血《のういつけつ》かなにかで?」 「蛇です。キング・コブラという毒蛇に噛《か》まれて死んだんです」 「蛇に?」  女は大きく溜息《ためいき》をついた。 「飼犬《かいいぬ》に手をかまれるという言葉もあるけれど、あのパパが蛇にかまれて死ぬなんて……」 「パパ?」英策は、さすがにこの一言を聞きのがさなかった。 「あなたは、先生となにか、肉体的な関係があったんですね?」 「まあ……」吉野マリも、とたんに失言に気がついたらしい。ぐっと眉《まゆ》をひそめると、 「それがいったいどうしたというの? 誰と寝《ね》ようが、わたしの勝手よ。それとも、わたしが、あの人を殺したとでもいうの?」  と激《はげ》しい語気で問いつめて来た。 「そういう野暮《やぼ》はいいませんよ。ただ、あなただって、人間ならば、先生の仇《かたき》は討《う》ってあげたいという気持になるでしょう。僕にしたって、ただその死体にぶつかったというだけで、前世《ぜんせ》の因縁《いんねん》みたいなものを感じて、こうしてすっ飛んで来たくらいですからね」 「そうね。あなたが義侠心《ぎきようしん》に富んでおいでだということは、前から聞いていたけれど、ほんとうにパパは気の毒だったのよ」  吉野マリは声の調子をおとしていった。 「ああいう研究をしているから、誰も奥《おく》さんになり手がないでしょう。最初の奥さんは二十年も前に死んでしまったし……それからはずっとおひとりだったのよ。さいわい、わたしはこんな女だから、蛇なんか何とも思わないし、パパの気持もいくらかは、人より理解できたでしょう」 「でも、結婚《けつこん》するつもりはなかったんですか」 「結婚——そんなことは最初からあきらめていたわ。釣《つ》りあわないとかなんとかじゃなくって、あそこの家の人がみんな大きらいなの。あの息子《むすこ》さんったら、わたしが出入りするのをひどくいやがっていたわ。学者ぶっているのか、上品ぶっているのか知れないけれど、わたしの顔を見ると、いつでもしかめっ面《つら》をしてそっぽをむくの……それに、あのヒステリーの後家《ごけ》さんが、すごくわたしにやきもちをやくの。あんな人たちといっしょに暮《くら》すなんて、まっぴらごめん」  英策も溜息《ためいき》をついていた。異様な情事には違《ちが》いない。そして、この女にしても、たとえ体は許したとしても、心からの愛情は感じていないことはたしかだろうと思われた。 「それで、特に先生を憎《にく》んでいたという人はいなかったんですか?」 「さあ、そこまではわからないわ。パパと来た日には、人間のことなど、どうでもいいんじゃなかったかしら」 「松岡安男という男は?」 「あの人は、なにを考えているかわかったもんじゃないわ。蛇使いとしても最低ね。つまらないことで、腹をたてて、人殺しをしたとしたって、ふしぎはないわ」 「坂井道則のほうは?」 「あの人とは、時々いっしょになったけれど、決して悪い人ではないわ。たしかに口はよくないけれど、おなかはそれほどじゃあないのよ」 「ほかに、蛇仲間の常連《じようれん》には、どんな人間がいたんです?」 「常連といったって、それほどじゃないわ。どこかの動物園に関係している森口という人は、先月アフリカへ行っちまったし、島中という蛇屋さんも旅行中だし、とにかく、わたしたちの仲間には、パパみたいなお人よしを殺そうとする人なんか一人もいないわね」  吉野マリは、やっと気がついたように、鏡台《きようだい》のそばから、チョコレートの箱《はこ》をひっぱり出した。 「おひとついかが?」  酒なら底なしの英策も、甘《あま》いものには弱かった。 「折角ですが、甘い物は断《た》っているので」 「そう?」女が、チョコレートを口へはこんだとき、出番を知らせるベルが鳴った。   第二の殺人  その翌日は、英策もこの事件のほうには手がまわらなかった。前からひっかかっていたほかの事件の処理で、まる一日、つぶされてしまったのだ。不本意《ふほんい》には違《ちが》いなかったが、これも職業となるとしかたがないことだった。  しかし、夜の九時ごろには、事務所の電話がまたしても、彼をこの毒蛇事件にひきずりこんだ。黒崎警部からだった。 「大前田さん、えらいことになったよ」 「なにが?」 「吉野マリが殺されたんだ。いま『青い花』の楽屋《がくや》で」 「なんだって! 今度も蛇にやられたのか」 「そうじゃない。チョコレートの中に毒が入っていたんだ」  英策も受話器を握《にぎ》って呆然《ぼうぜん》としていた。昨夜のあの出来事を戦慄《せんりつ》とともに思いおこしたのだ。 「あなたは昨夜、彼女にあっているそうだね。そのことについて話が聞きたいが、これからすぐに来てくれないか」 「行く、行くとも」  もうほかのことには、かまっていられなかった。英策はすぐ車をとばして「青い花」へかけつけた。臨時の調べ室になっているらしい支配人室で、黒崎警部は鬼《おに》のようにいきりたっていた。 「大前田さん、あなたはなにか、昨夜彼女の口から、秘密をさぐり出せなかったかね」 「たいしたことは聞いていない。でも、警察だって、彼女のほうは調べたんだろう」 「うん、いちおうは——ただ、あんたのほうが、こういうことでは一枚上手《うわて》だろうから」  英策はかんたんに、昨夜の話をくり返したが、警部の顔色になんの変化も見えなかったところから判断すると、警察でもおなじ程度のことは聞き出していたのだろう。 「それで毒は?」 「チョコレートの中の青酸カリだ。誰かが『一フアンより』という紙片をつけて、とどけてよこしたんだ。こういってはなんだが、犠牲者《ぎせいしや》が一人ですんでまだよかったよ」 「たしかに……」  英策も激《はげ》しい義憤《ぎふん》を感じていた。もちろん殺人という行為《こうい》は憎《にく》むべきものだが、特にこういう方法は、なんの罪もない第三者まで、まきぞえにする可能性が強いのだ。 「例のコブラ事件の連続だね。ところで、むこうのほうからは、犯人の見当がつかないのかい」 「いまのところは……」  警部は顔中の筋肉を全部いっしょに歪《ゆが》めたような表情になった。 「指紋《しもん》はとれない。確実なアリバイのある人間は一人もない。ただ、常識的にあんな方法で人を殺せるのは、蛇《へび》をあつかいなれた人間にかぎられるだろう。ふつうの人間だったら、その前に自分が噛《か》まれはしないかと心配して、めったに手は出せまいよ」 「なにしろ、僕みたいな向う見ずがふるえ上がったくらいだから、その前提には賛成するが、その条件で、いったい誰が省けるんだ」 「佐川敬二郎、ひとりきりだよ。ほかの人間は、お手伝いはべつだが、見よう見まねぐらいでも、蛇をあつかえないことはないはずだ」 「それで一番くさいのは?」 「まあ、あんただから話をするが、坂井道則が怪《あや》しいんじゃないかと僕は思っている。彼と吉野マリの間に、肉体関係のあったことは、ほかの方から探り出した。典型的な三角関係——こうなると、少なくとも、二人を殺した動機だけでもはっきりして来るんじゃないか」  とはいうものの、自信はあんまりなさそうだった。英策に自分の意見を述べているのか、逆に意見を求めているのか、わからないような調子だった。 「おかしいな。これが事故ではなく殺人だと最初にわめきたてたのは彼だったんだぜ。人を殺して、事故でかたづけられるなら、犯人にとっては、ずっと有利なはずだがなあ」 「そこが一種の陽動《ようどう》作戦じゃないのかな。アリバイがないので、わざとそんなことをいって、嫌疑《けんぎ》をそらそうとする手もある」 「そうかねえ。ほかにあやしい人間は?」 「岸本信明にしたところで、ぜんぜん嫌疑がかからないこともない。養父が死ねば、彼は苦しい立場から解放される。蛇とも縁《えん》が切れるだろうし、莫大《ばくだい》な遺産も手に入る。結婚の障害もなくなるわけだ」 「それではなんだって、彼がこっちの女まで、殺さなくっちゃいけなかったんだ?」 「彼女はこっちの息子《むすこ》のほうに、えらく悪態《あくたい》をついていたがね。ひょっとしたらこの二人の間にも、なにかあったんじゃないのかな。愛情と憎《にく》しみとは、紙一重《かみひとえ》だというじゃないか。ことに、僕の見た印象だと、あの女はおしがふとくて口のかるい性格だ。この際生かしておいては具合がわるいと、信明が考えたとしても、ちっともふしぎはないとも。毒を喰《くら》わば皿までということもある」 「その考えにも一理はあるが、ただ、毒チョコレートを楽屋《がくや》へ送るということは……」  英策はぷっつり話を切って、窓のほうをじっと見つめた。警部もつりこまれて、英策の視線をたどったが、窓の外には、ただ暗い夜の闇《やみ》がたちこめているだけだった。 「大前田さん、なにを見ているんだね?」  英策はわれに返ったように、 「いや、窓ガラスを見ていたんだよ」 「窓ガラスを?」 「うむ……ちょっと思い出したことがあるんだ……ずっと前に、なにかで読んだおぼえがあるが、すっかり忘れていたよ。まあ、黒崎さん、僕はちょっと調べて見たいことがあるから失礼するよ。明日か明後日、またあおう」 「大前田さん、待ってくれ。いったい……」  黒崎警部があわてて声をかけたときには、英策はもう部屋《へや》をとび出していた。   蛇《へび》とガラス  その翌日の夕方には、岸本家で、この事件の最終幕が展開された。 「信明君が、至急会いたいというので、やって来たんだがね」  玄関先《げんかんさき》で、いくらか不審《ふしん》そうな顔で、そういい出したのは佐川敬二郎だった。 「はいはい、さっきからお待ちかねです。こちらへどうぞ」  奇妙《きみよう》なうす笑いを浮かべて、佐川敬二郎を迎《むか》えいれたのは松岡安男だったが、彼はどんどん蛇《へび》の部屋《へや》にむかって歩き出した。 「おい、君、どこへつれて行くんだ。僕が蛇ぎらいなことは知っているはずだろう」  佐川敬二郎が、上《うわ》ずった声でいい出すと、松岡安男は冷たく笑って、 「大丈夫《だいじようぶ》です。あのとなりの大先生のお部屋のほうですから」 「しかし、なんだって信明君は、いつものように自分の部屋で……」 「わかりませんねえ。私はただ、若先生の御命令通りにするだけです」  佐川敬二郎は、なにかの不安を感じたらしい。 「いやだ。僕は帰る。なにも信明君の命令に従う必要はない!」  とたんに、松岡安男は、佐川敬二郎におどりかかり、片手でその口をふさぐと、ずるずると蛇の部屋のほうへひきずって行った。 「こいつ、手間《てま》をとらせやがって……」  ぶつぶついいながら、松岡安男は、ドアを足で開き、佐川敬二郎を中へおしこんで、鍵《かぎ》をかけてしまった。 「こら、何を……何をするんだ!」  敬二郎は顔色を変えた。ドアを押《お》したり引いたりたたいたりしたが、頑丈《がんじよう》な扉《とびら》はびくともしない。 「助けて……助けてくれ!」  金切声《かなきりごえ》でわめきながら、彼は恐怖《きようふ》に満ちた眼で部屋中を見まわした。  どうしたことか、今夜は部屋に、うす暗い電燈が一つしかついていない。そしてガラスの床《ゆか》の中央には、白と黒のだんだら模様《もよう》を持つ、ぶきみな生物がうごめいていた。  キング・コブラ!  佐川敬二郎は血の出るような悲鳴をあげた。いまにも、この恐ろしい毒蛇が、鎌首《かまくび》をもたげて、彼に飛びかかって来るような幻想《げんそう》の虜《とりこ》となったのだ。 「助けて! 人殺し!」  彼はドアに体をたたきつけて、ぶち破ろうとした。それから、隣《となり》の部屋へ通じるドアにも体当りしたが、どちらも開かなかった。 「誰か……誰か……」  もう声をはりあげる気力もなくなったのか、彼がかすれた声でいったとき、 「敬二郎、おれがいるよ……」  この蛇の部屋の奥《おく》のほうから、気味《きみ》のわるい声がしたかと思うと、白衣の男の姿が、うす暗がりの中に、ぼんやり浮かびあがった。佐川敬二郎の両眼は、いまにも飛び出さんばかりだった。 「お……お、おじさん、ゆ……許してくれ……お、おれが悪かった。か、かんべんしてくれ」 「人殺しをしておいて、いまさら何をいう」 「後悔《こうかい》している……だから……許して……」  佐川敬二郎は、顔を両手でおおって、とぎれとぎれにつぶやいていた。 「大前田さん、あんたもえらい荒療治《あらりようじ》をしたものだね。暴行、脅迫《きようはく》、不法監禁《ふほうかんきん》、殺人|未遂《みすい》、どの容疑でも起訴《きそ》できるよ」  その後でかけつけて来た黒崎警部は、あきれたようにいい出したが、英策は笑って、 「これをショック探偵法《たんていほう》といってね。毒蛇に毒蛇で対抗しただけなんだよ」 「まあ、あんたを捕《とら》えるつもりはないが、それにしても今度はおどろいたよ。幽霊《ゆうれい》に化けたのはまだいいとして、よくもまた、キング・コブラと同居できたものだ」 「ところが、実をいうと、ぜんぜん危険はなかったんだ。もちろん気持は悪かったが、ただそれだけのことだった」 「危険はない? 毒をぬいておいたのか? それでも、とびかかってこられたら……」 「いや、毒をぬく必要もなかったのさ。蛇《へび》というやつは、ガラスの上では前進できないんだよ。のたうちまわるのが精々《せいぜい》で、とびかかることも出来ないんだ。鱗《うろこ》がひっかからないんだね。あの部屋《へや》の床《ゆか》がガラスばりになっているのは、そんな理由からなんだね。この話を思い出したとき、僕は犯人に見当をつけたんだよ」 「どうしてだ?」 「つまり、この事件の犯人は、蛇についてはこういう基本的な習性さえ知らなかったということになる。あんたたちの推理とは逆に、蛇をあつかったことのない人間だったんだ。この場合には、コブラのケースと被害者《ひがいしや》の倒《たお》れた位置が接近していたから、どうにか目的は達《たつ》せられたが、もう少しはなれていたら、コブラは噛《か》みつくことが出来なかった。蛇のことをよく知っている人間なら、こんな犯罪は危険が大きすぎて、とても実行できないよ。早く発見されたら、命も助かるかも知れない。蛇が自由に動ける場所では、まわりでさわげばさわぐほど、腹をたててあばれ出すだろうから、万に一つも助かる見込はなかろうが、動きのとれない蛇なら簡単に始末が出来る。現に坂井道則が、僕の眼《め》の前でやって見せたようにね」 「なるほど、そういうわけだったのか……」 「それから、こういう厄介《やつかい》な殺し方をしたのは、事故死と見せかける狙《ねら》いだったろうが、それが簡単にぼろを出したのは、犯人が蛇を扱ったことのない人物だという推定を裏づけるだろう。犯人は、こんな場所では、クロロホルムの臭《にお》いなど、問題にもなるまいと思っていたのだろうが……」  英策は、ゆっくり煙草《たばこ》に火をつけて、 「次に、第二の殺人——吉野マリ殺しを考えて見ると、べつの面から、犯人の姿が浮《う》かび上がって来るね。毒の入ったチョコレートを楽屋《がくや》へ送るなどというのは、殺しの方法としては不確実この上ないよ。彼女が自分の前に、誰かにすすめる可能性は十分にある。先に手を出した人間が苦しみだしたらそれっきりだ。そこでこの殺しは、岸本義一の死を事故だと見せかけるのに失敗した犯人が、嫌疑《けんぎ》をほかへそらそうとして打った苦肉の策だと解釈できないかね。これを逆にいえば、犯人は吉野マリとはなんの関係もない人物だという線が出て来るのさ」 「なるほどな……その二つの点から見ていくと、たしかに佐川敬二郎が大きく浮かび上がって来るな。小野寺満代のほうは、兄の義一といっしょにくらしていたから、蛇の習性ぐらいは、いやでもおぼえてしまったろう」 「その通りだよ。佐川敬二郎に目星《めぼし》をつけてから、僕は助手を使って、大急ぎで調べて見たんだが、彼は最近の生糸相場《きいとそうば》で、たいへんな穴をあけているようだ。経済には弱いあの家の連中をまるめこんで、財産をふやしてやるとか、何とかいって金を使いこみ、にっちもさっちも行かなくなったあげくの犯行というわけだね……」 「ところで、大前田さん、もう一つ問題がのこっているよ。あれほど蛇《へび》をこわがっている佐川敬二郎が、どうして毒蛇のケースの戸を……ああ、そうか、例の熊手《くまで》を使ったのか」 「そうだ。昏倒《こんとう》させた先生をかつぎこみ、熊手でケースを開け、それをほうり出して、死物狂《しにものぐる》いで逃《に》げ出したんだろう。ガラスのことを知っていれば、なにもあわてることはなかったんだが、とにかく、無知ほど恐《おそ》ろしいものはないというのが、この事件の教訓《きようくん》だったろうね」 「あんたのように、人の無知につけこんで、大芝居《おおしばい》をやる性悪《しようわる》な人間も多いことだしな」  英策と警部は、顔を見あわせて笑い出した。  殺人|予告篇《よこくへん》   消えた死体  大前田英策《おおまえだえいさく》は、一枚の名刺《めいし》と二枚の紙片とを前にして、首をひねりながら、この依頼者《いらいしや》の顔を見つめた。  名刺のほうは、べつに変わったところもない。北斗製氷《ほくとせいひよう》株式会社専務取締役《せんむとりしまりやく》、石田鉄二《いしだてつじ》、とあるだけで、いかにも中小企業《きぎよう》の経営者然とした風貌《ふうぼう》だった。名は体《たい》をあらわすというが、彼にはどこか、冷たくこちこちした感じがあり、たいへんな意地っ張りらしい。  まあ、それはいいとして、英策を当惑《とうわく》させたのは、二枚の紙片、二通の診断書《しんだんしよ》だった。  一枚は眼科医の出したもので、視力左右とも二・〇、色盲夜盲症《しきもうやもうしよう》の症状《しようじよう》なし、というのである。もう一枚は精神鑑定書《せいしんかんていしよ》で、石田鉄二が正常《せいじよう》な精神の持主であることを証明したものだった。 「これで、今から私の申しあげることも信じていただけますでしょう?」  石田鉄二は、まだ立腹がおさまらないように、 「とにかく、前もってこんな書類をお見せしなければならないほど、突拍子《とつぴようし》もない、奇怪《きかい》なお話なのです」  といいながら、身をのり出して、 「何しろ、警察の連中は、私がたちの悪い悪戯《いたずら》をしたと思いこんで、軽犯罪法《けいはんざいほう》第一条第十六|項《こう》で処分するというんですよ」 「それはどういう条文でした?」  英策も首をひねっていた。 「立小便や露出狂《ろしゆつきよう》より、ちょっと悪質なものだというんです。虚構《きよこう》の犯罪を公務員に申し立てたもの——が、この条文にふれるのです」 「虚構の犯罪というとどんなものです?」  英策はしだいに興味を感じて来た。 「死体があらわれたり消えたりしたのです。眼《め》にも精神にも異常はないということを、最初に証明しなければならないと思ったのは、このためです!」 「死体が消えた? どこでですか?」 「ではいちおう順序をたててお話ししますが、私には宏一《こういち》という兄があります。その兄の持家《もちいえ》を売るように頼まれていたのですが、この家は少々いわくつきの家です。理由はよくわかりませんが」 「家相でも悪いのですかな?」 「そうかも知れません。とにかく、宇宙時代といわれるような今日《こんにち》では、人に笑われるかも知れませんが、とにかくこの家を建てた建築家は発狂《はつきよう》して死んでしまいましたし、兄が住んでいる間にも、縁起《えんぎ》でもないことばかり続くのです。とどのつまりは、子供が一人、交通事故で死んでしまうという始末、兄もすっかりいや気がさして、引っ越《こ》してしまったものですが」 「たしかにそういう家は時々ありますね。それで?」 「今度は買手が見つからないというわけですよ。もちろん周旋屋《しゆうせんや》にもたのんではあるのですが、やはりこういう因縁話《いんねんばなし》は、何となく、みんなにわかるものらしくて、もう半年ばかり、空屋《あきや》のままで、ほったらかしてあるのですよ」 「その家に死体があらわれたのですか?」 「そうです。今度は完全な化物屋敷《ばけものやしき》になってしまったのです。ようやく、買手として見こみのありそうな相手を見つけたものですから、私は昨日、その家へ行って見たのです。まあ、半年もほったらかしておいたのですから、当人を案内する前に、いちおう中をあらためておいたほうがいいだろうと思ったのです。それで夕方五時半ごろ、うちの会社の庶務《しよむ》課で仕事をしている森岡信男《もりおかのぶお》という男に車を運転させて出かけたのです。ところが、中へ入って見ると、玄関《げんかん》の上がりがまちのところに、女の死体がころがっていたじゃありませんか!」  思い出してもぞっとするというような顔で、石田鉄二は頬《ほお》の筋肉をひっつらせると、 「上半身は裸《はだか》でした。体にさわって見ても冷えきっているのです。私はあわてて森岡君に電話をかけさせました。こっちもがたがた震《ふる》えが来たので、家をとび出し車で警察へかけつけたのですが……」 「ちょっと待って下さい。死体の様子を、もう少しくわしく説明して下さいませんか」 「なにしろ、とっさのことですし、私もそんなことにはなれていませんから……うつぶせに倒《たお》れていたので、顔もよく見えませんでした。髪《かみ》とおっぱいの工合《ぐあい》から、女だということはわかりましたが……」 「その森岡さんという人のほうは?」 「彼もちらっと見ただけですから……何しろ若いくせに、私よりも臆病《おくびよう》でして、はっきりした記憶《きおく》はないといっています」 「それから後は?」 「とにかく十五分ばかりで、パトカーがやって来ました。私は警官といっしょに中へ入って見たのですが、今度はどうしたことか、死体が消えてなくなったのです。影《かげ》も形もないのですよ!」 「なるほど、それは奇妙《きみよう》なお話ですね」 「奇妙どころか、奇々怪々《ききかいかい》もいいところですよ。警官はいちおう家探《やさが》しをしましたが、そのあとで、たちの悪い悪戯《いたずら》だと思いこんでしまったらしいのです……家中、どこにも死体などありませんし、まだ暗くなってしまうには間がありますし、誰かが死体をかつぎ出したとも思えませんし……どう考えても、理屈《りくつ》にあわない話です。まあ、出かける前に、私のほうは、少々ビールをひっかけていましたから、警官が悪戯ときめこんでしまったのも、無理のないことかも知れませんが、しかし、私はたしかに死体を見たのです。この眼《め》で、間違《まちが》いなく見たのですよ!」  石田鉄二は、すっかり興奮してしまったらしく、テーブルの上の二枚の診断書《しんだんしよ》を、拳《こぶし》でどんどんたたきながら、 「それで、兄に相談したところが、警察でもてあましたような怪事件《かいじけん》なら、大前田先生におねがいしろというのです。先生、何とか真相を究明していただけませんか。買手のほうは都合があって、明日にしてくれというのがもっけの幸いです。何とか、それまでにこの謎《なぞ》を解決してはいただけませんか!」 「消えた死体の謎ですか。何ともむずかしい問題ですねえ」  英策はしきりに首をひねっていたが、 「とにかく現場を見せていただきましょう」 「おひきうけ下さって、ありがとうございます。すぐ御案内いたしましょう」  相手はいかにもほっとしたように、何度も頭を下げていた。   あらわれた死体  中野区|江古田《えごた》の一角にある問題のこの家は、たしかに化物でも出そうな雰囲気《ふんいき》に包まれていた。  庭も三百|坪《つぼ》はあるだろう。建物も六十坪ぐらいのなかなか凝《こ》った建築なのだが、どこか陰気《いんき》で、うす気味わるい感じだった。  こわして建てなおすには、建物がもったいないという気がするし、たいていの買手なら、二の足をふむのも当然だろう。  どんよりとした天気の日で、雨こそ降っていなかったが、鉛色《なまりいろ》の雲はひくくたれこめて、この陰鬱《いんうつ》な家に、いっそう陰鬱な雰囲気《ふんいき》を与《あた》えていた。  車がこの家へ近づくにつれて、石田鉄二も車を運転している森岡信男も、しだいに口数がへって行ったが、車をおりて玄関《げんかん》へ近づいて行ったときには、もう一言も口をきかなくなった。英策自身も、なぜか不安な予感におそわれて黙《だま》りこんでしまったのである。  石田鉄二はポケットを探って鍵《かぎ》をとり出し玄関《げんかん》のドアを開けた。  そして、そのとたんに、よろよろと後ろへよろめくと、大声で叫《さけ》んだ。 「大前田先生! あれ、あれ!」  鉄二の肩《かた》ごしに、玄関の中をのぞきこんだ英策も、一瞬《いつしゆん》、唇《くちびる》をかみしめて、その場に棒だちになってしまった。玄関の上がりがまちのところには、長い髪《かみ》をふり乱した女が、うつぶせに倒《たお》れていたのである。 「昨日と……おなじです……」  森岡信男も、かすれた声でつぶやいた。  英策《えいさく》は二人をおしのけて中へとびこみ、女のそばにかがみこんだ。手をふれて見るとひやりとした。上半身は完全な裸体《らたい》で、下にスカートをはいているだけだが、こういうことになれている英策は、死因が扼殺《やくさつ》だと一目でにらんだのである。  森岡信男は、また急に悲鳴をあげた。石田鉄二も、何かに気がついたらしく、青い顔をいっそう青くして、身をふるわせた。二人の様子を鋭《するど》く一瞥《いちべつ》した英策は、死体の首に手をかけて、顔をのぞきこんだ。苦悶《くもん》の表情をいっぱいに浮かべたわかい女の顔に、六つの眼《め》が釘《くぎ》づけになった。  ちょっとあくは強いが、男好《おとこず》きのしそうななかなかの美人だった。とはいっても、いまはその美しさも形骸《けいがい》だけといってよい。ただ唇の色だけが、奇妙《きみよう》に毒々しくあざやかだった。 「瀬川《せがわ》さん……」  森岡信男がひくくつぶやいた。 「この女を御存じなのですね?」  英策はふりかえってだめをおしたが、石田鉄二はかすかにうなずいて、 「知っているにも何にも……うちの会計をやっている瀬川|綾子《あやこ》です……いったい、どうしてこんなことになりましたか」  英策は森岡信男にむかって、 「とにかく、警視庁に連絡《れんらく》して下さい。まさか悪戯《いたずら》とは思わんでしょうが、念のために僕の名前をいって、捜査《そうさ》一課の黒崎駒吉《くろさきこまきち》警部を呼んだほうがいいでしょう。石田さんと僕は、ここで待っています。また、死体が消えてなくなると困りますからね」  最後の一言をどうとったのか、森岡信男は上目《うわめ》づかいに英策をちらりと見て、大きく身ぶるいすると外へかけ出して行った。  石田鉄二はハンケチをとり出して、額《ひたい》のあたりをぬぐうと、 「昨日は土曜で、事務のほうは午後二時ごろで終りになりましたから、瀬川君も、そのころには事務所をひきあげたはずですが、それからどうして、こんな目にあったのでしょうか」  と、半分ひとりごとのように、ぶつぶつつぶやいていた。  英策はそれに対して、べつに言葉をはさもうともしなかったが、突然《とつぜん》思い出したように、 「石田さん、この家の鍵《かぎ》を持っているのは誰と誰です?」 「私のほかには、兄だけです。周旋屋《しゆうせんや》のほうはお客があると、私に連絡《れんらく》してくれることになっています。もちろん、私が来るとかぎらず、森岡君などに鍵を預けてよこす場合もあるわけですが」 「昨日、警官が調べたときにも、戸じまりは完全だったのですか?」 「ええ、私もいっしょに見てまわりましたから、その点はたしかです。いくら空屋《あきや》でも、浮浪者《ふろうしや》などに入りこまれてはたまりませんから、戸じまりはきちんとしておいたのです」 「なるほど……それであなたは、その鍵をふだんどこにおいておいでです。めったに使わない鍵でしょうし、まさか、いつでも持ち歩いておられるわけでもないでしょう」 「ええ……ふだんは、会社の机の中に入れてあります。昨日ひさしぶりに使ったのです」  英策はうなずいて質問の方向をかえた。 「被害者《ひがいしや》の瀬川綾子というのは、どんな娘《こ》だったのですか?」 「どんなといって……べつに……はきはきした、なかなかいい子でしたけれども」  相手はちょっと言葉を濁《にご》した。 「男関係はどうだったのですか?」 「さあ、そこまではわかりませんね……ああいうタイプの子ですから、彼氏《かれし》の一人や二人はいたと思いますが」  英策は、死体の胸のふくらみに、ちらりと視線を投げかけて、 「おたくにつとめて、どのくらいです?」 「かれこれ一年近くでしょうか?……」 「こう申しては何ですが、おたくのような中小|企業《きぎよう》では、工員はともかく、事務系はたいていコネ採用でしょう。彼女には、どういう縁故《えんこ》があったのですか?」  石田鉄二は眉《まゆ》をひそめて、ちょっと返事を渋ったが、やがてあきらめたような顔で、 「実は兄の推薦《すいせん》だったのです。もっとも誤解《ごかい》していただいては困りますが、彼女と兄との間に、何か関係があったとは思えません……役にたつ子だからということで、すすめてくれただけだと思いますが……」   隠《かく》したのか消えたのか 「死体があんたについてまわるのか、あんたが死体についてまわるのか、そのどっちかは知らないが、今度もまた、妙《みよう》な仏《ほとけ》を見つけ出したね」  黒崎警部は呆《あき》れ顔で英策にむかっていった。 「私立探偵《しりつたんてい》というものは、どうせ社会の溝《どぶ》さらいだ。溝をさらえば、汚《きたな》いものにぶつかるのが、当然。死体を見つけたところで、どうってこともないだろう」 「それは耳にたこが出るほど聞かされているあんたお得意《とくい》の持論だが、それにしても、あんたは死体にぶつかる回数が多すぎるようだが、犯波《はんぱ》探知機のためかどうかは知らないが、僕はときどき、あんたがこの世にいなければ、殺しの数がぐんとへるんじゃないかと思うことがあるよ」  黒崎警部は、そんな憎《にく》まれ口をききながら英策のほうに微笑《びしよう》を投げた。碁仇《ごがたき》のような関係だから無理もないが、すぐ真剣《しんけん》な顔になってたずね直した。 「いったい、どういうわけなんだ? 電話では、くわしい事情はつかめなかったが……」  英策が事情を説明した。警部はうなるような声を出した。 「昨日、そんなことがあったのか?」  警部は部下の刑事《けいじ》たちに、何か早口で命令を下し、死体をあらためている検屍官《けんしかん》の肩《かた》をたたいた。  眼鏡《めがね》をかけた丸顔の検屍官は、職業的な無表情さで、死体を調べていたが、 「おきまりのおたずねでしょう? 死因と死亡推定時刻ですね?」 「うむ」 「扼殺《やくさつ》ですよ。かなり抵抗《ていこう》した跡《あと》があります。死亡推定時刻は、いま直腸内《ちよくちようない》の温度を測って見ましたが、体温の低下から見て、死後二十時間ぐらいじゃないかと思いますね」  警部は腕時計《うでどけい》を見つめて、 「いま午後一時——ということは、昨日の午後、五時か六時に殺されたということになるね?」 「おそらく大差ないでしょう。まあ、こういう推定では、一時間二時間の誤差《ごさ》はないともいえませんが」  検屍官は、科学者らしい慎重《しんちよう》な態度で答えた。 「君たちの眼は節穴《ふしあな》じゃないのかね!」  黒崎警部は巨体《きよたい》をゆすぶりながら、二人の警官にむかって雷《かみなり》をおとしていた。 「とにかく、警部殿、私たちは家中をくまなく調べまわったのですが、人間の死体はおろか、猫《ねこ》の子一匹見つかりませんでした……」 「最初から嘘《うそ》と思いこんで、いいかげんに調べたんだろう。君たちが来たとき、犯人はすぐ近くにいたはずだぞ!」 「決していいかげんなまねはしません」  二人の警官は、真青《まつさお》になって、必死の抗弁《こうべん》を続けていた。  黒崎警部は苦虫《にがむし》をかみつぶしたような表情で、 「それでは、どのくらいの時間をかけて調べたのか、いって見たまえ!」 「はあ、たっぷり二、三十分は……」 「馬鹿《ばか》! これだけ広い家を探《さが》すのに、二、三十分でなにがたっぷりだ!」 「でも、警部殿、空屋《あきや》ですから……」 「空屋でも同じことだ。戸棚《とだな》、押入《おしいれ》に見おとしはなかったか? 床下《ゆかした》にかくした形跡《けいせき》はなかったか? 庭もすっかり調べたか? さあ、どうだ。落度《おちど》はなかったと断言できるか」 「申しわけありません……死体が消えるということは、常識で考えられなかったので」 「消えたんじゃない。犯人がどこかへかくしたんだ!」 「でも、なぜわざわざそんなことを……」 「そんな詮策《せんさく》は後の話だ。とにかく、今後は気をつけたまえ!」  黒崎警部は、もう一度大声でどなりつけてからやっと二人を放免《ほうめん》した。 「情けないよ。このことを意地の悪い新聞記者がかぎつけたら、警官の質が低下したとか何とか、喜んで書きたてるだろうな……実際、今度という今度はたしかに大黒星《おおくろぼし》さ。いかに警官は人を見たら悪人と思えというのが教訓だとしても、ひとかどの紳士《しんし》が死体を発見したと申したてているのを、すぐ悪戯《いたずら》ときめこむとは、言語道断《ごんごどうだん》、沙汰《さた》のかぎりだ」  今度は英策にむかって、仏頂面《ぶつちようづら》でいうのである。 「まあ、そういうなよ。常識的に考えれば、二人が悪戯と思いこんだのも無理はない」  英策はとりなすようにいうと腕組《うでぐ》みして、 「彼等《かれら》のいった通り、犯人がなぜ、わざわざ死体をかくしたのか、考えて見れば奇妙《きみよう》な話だとも。一度発見された死体を、あわててかくすよりは、自分で逃《に》げ出すほうが、よっぽど早道だろうにねえ」 「被害者《ひがいしや》がそのとき完全に死にきっていなかったなら? 少なくとも、犯人にその確信《かくしん》がなかったとしたら? 扼殺《やくさつ》、絞殺《こうさつ》の場合には、被害者が後で息を吹きかえすことも間々ある例だからな」 「それもたしかに一理はあるが、それでは、死体をまたもとの場所へもどしておいたのは、いったいどんな了見《りようけん》からだろう?」 「さあ……事件を奇々怪々《ききかいかい》に見せかけたかったからじゃないかな」 「そのねらいはたしかにあるだろうが、それだけのねらいのために、犯人が現場へもどって来たと考えるのはどうかなあ。まあ、これはすべて、犯人が死体をかくしたということを前提にしての議論だが」  英策がつぶやくようにいったのを、黒崎警部は聞きとがめて、 「ほかにどんな前提があるというんだい? まさか、あんたはほんとうに死体がまぼろしのように、あらわれたり消えたりしたと思っているんじゃなかろうね?」 「さあね……こういう妙《みよう》な家では、案外《あんがい》そんなことがあったのかも知れないよ」  英策は冗談《じようだん》か真剣《しんけん》かわからない口調で答えた。   賢兄愚弟《けんけいぐてい》  石田宏一は三時ごろこの家へやって来た。  鉄二以上に、冷酷《れいこく》な人がらを思わせる顔だちだった。金儲《かねもう》けのためなら、どんなことでもやりかねない男——というのが、英策の第一印象だった。そして、この家にただよっている雰囲気《ふんいき》と、この持主の宏一の性格との間にも、どこか共通点があるような気がしてしかたがなかった。 「刑事《けいじ》さんから連絡《れんらく》があって、いちおう現場へ来てくれ——というお話だったので参りましたが、何とも腹のたつ家です。縁起《えんぎ》なおしに、たたきこわしてやりたくなりましたよ。ところで、女の死体が見つかったそうですな」  忙《いそ》がしいのに、つまらぬことで手間《てま》をとらせて——といった感じが、露骨《ろこつ》に顔にあらわれていた。 「そうです。瀬川綾子の死体ですが」  黒崎警部は切口上《きりこうじよう》めいた口調でいった。 「瀬川綾子? 瀬川綾子とね……ははあー、なるほど、自殺ですか?」  いかにも関心がなさそうな態度だったが、宏一の眼が一瞬《いつしゆん》、鋭《するど》く光ったのを、そばにいた英策は見のがさなかった。 「どうも自殺ではなさそうですね。しかしどうして自殺の可能性があるとお考えになったのです?」  黒崎警部もこの相手には一種の反感を感じたのか、挑《いど》みかかるような調子でたずねた。 「さあ、なぜでしょうな……何となく、自殺じゃないかという気がしたのでしょう。どっちにせよ、私の知ったことではありませんがね。正直なところ、縁《えん》もゆかりもない女の死体が、私の持家《もちいえ》で発見されたというだけで、尋問《じんもん》されるのは大いに迷惑《めいわく》ですな」 「縁もゆかりもないことはありますまい。あなたは瀬川綾子を御存じのはずですね」 「友人からたのまれて、就職の世話をしてやっただけです。彼女のことなら、弟のほうがよく知っていますとも。鉄二、そうだろう」  この言葉には何となく毒気《どくけ》があった。石田鉄二は一瞬、兄の顔を訴《うつた》えるように見あげ、すぐ視線をそらして弱々しくうなずいた。二人の間には、ただの兄弟というよりも、なにか昔の殿様と家臣《かしん》の関係を思わせるような感じがあった。 「あなたは、この家の鍵《かぎ》を、ふだん、どこに保管しておられるのです?」  黒崎警部は質問を続けた。 「さあ、どこにおいたか覚えていませんな」 「御自分の持家だというのに、無茶な……」 「何せ、私の財産はこの家だけじゃありませんでね。こんなものは、全財産の何十分の一かですよ。売るのに熱心だったのは弟のほうです。マージンをやると約束《やくそく》しましたのでね」  石田宏一は、カレンダーつきの金側《きんがわ》の腕時計《うでどけい》にちらりと視線を走らせて、 「すみませんが、今日はある政務次官と約束がありますから、これで失礼いたします。この家のことは、秘書と弟にまかせていますから……もしまだおたずねになりたいことがありましたら、明日でも会社のほうへいらっしゃって下さい。瀬川綾子には、たしか東京に身よりはなかったはずですから、葬式万端《そうしきばんたん》の費用は私が負担《ふたん》しましょう。そういう雑務は弟のほうが達者《たつしや》ですからね」  いいたいだけのことをいいきると、彼は黒崎警部にかるく頭を下げて出て行った。 「いや、どうも……」  後に残った鉄二は照れくさそうに笑った。 「何しろ、あの兄は無一文《むいちもん》から身をおこして、これまでのしあげたのですから、いくらか傲慢《ごうまん》なところもありまして……お気にさわったらお許し下さい。私も一社の専務とはいいながら、兄には頭が上がらないのですよ」 「おたくの会社も兄さんのものですか?」 「まあ、そういってもいいでしょう。社長は兄の友人で、松崎義明《まつざきよしあき》という男ですが、なにしろ兄は全株数の六割まで持っていますからね。私はただのやとわれ重役ですよ。ほかの仕事のマージンかせぎに夢中《むちゆう》になっていると思われてもしかたがありませんね」  何となく、自嘲《じちよう》をこめた答えだった。 「まあ、これだけのお家なら、マージンがかりに五分《ぶ》としても、相当の金額じゃありませんか。われわれの一年分の給料よりも多いか知れませんなあ」  黒崎警部も、つりこまれたように、こんなことをいったが、すぐきびしい表情になって、 「ところで昨日、瀬川綾子の態度なり行動なりについては、特に眼についたことはありませんでしたか?」 「さあ……」  石田鉄二も、森岡信男も、べつに思いあたる節《ふし》はなさそうだった。 「事務所から帰る時には、ひとりだったでしょうか?」 「違《ちが》います。大西令子《おおにしれいこ》といっしょだったと聞いていますが……」  森岡信男は自分のことばを確かめながら、ボソボソといった。 「大西さんというのは?」 「うちの事務をやっている女の子です。そういえば、二人で映画を見に行こうかなど相談していたのを、小耳《こみみ》にはさんだような気もしますが……」  黒崎警部は大きくうなずいた。 「それでは森岡さん、すみませんが、刑事《けいじ》をやりますから、会社へ案内して下さい。こういう事件の場合は、被害者《ひがいしや》の足どりを追うことが先決問題でして、そのために、いろいろ聞きこみをやって見る必要があるのです。それから、石田さん、あなたのほうは、警察までおいで願えませんか。いろいろ調書《ちようしよ》を作る必要がありまして」 「この際、やむを得ますまい。それでは、森岡君、大前田先生をお送りしてくれないか」  たしかに、この辺がいちおうの切り上げ時だろうと英策も思っていた。 「石田さんは運転のほうは?」  英策は車へ帰る途中《とちゆう》でたずねたが、森岡信男は笑って答えた。 「うまいものですが、物を考えながらでは危ないといいましてね」   容疑者《ようぎしや》たち  その翌日の正午近く、英策は警視庁へ黒崎警部を訪ねて行ったが、部屋《へや》の入口のところで、若い娘《むすめ》とすれちがった。  大西令子ではないかと、英策は直感で思った。年は二十三、四だろう。長い髪《かみ》を肩《かた》のあたりまでたらし、雌猫《めすねこ》のような眼《め》をきらりと光らせている。顔はむしろ下品で野性的といえるが、体のヴォリュームは相当なもの、男のあだ心をそそらずにはおれないような女だった。 「もうそろそろ、あんたが顔を出す時分だと思っていたよ」  黒崎警部は、煙草《たばこ》をふかしながら、苦い顔をしていった。どうもこの顔色から察したところ、捜査《そうさ》はあまり進展していないようだ。 「いまの娘は大西令子かね?」  英策は、自分の煙草をとり出しながらたずねた。 「そうだ。念のため、僕がもう一度|尋問《じんもん》して見たんだが、効果はほとんどなかったよ。彼女の申したてにはべつに不審《ふしん》な点もないな。映画の招待券を二枚もらったので、瀬川綾子をさそった。四時半ごろ、有楽町《ゆうらくちよう》の駅でわかれたけれども、その後は知らないというんだよ。被害者《ひがいしや》のほうは、誰かと約束《やくそく》があったらしいといっている」 「それも、あんたの顔色から判断して、その約束も、どんなものか、まだつかめていないな?」 「お察し通りさ。肝心《かんじん》の四時半からの被害者の行動については、何もわかっていないといっていいくらいだ」 「ほかの面では、何かめぼしい聞きこみはなかったか?」 「例の青年《せいねん》、森岡信男は、どうも瀬川綾子に惚《ほ》れていたらしいな。ところが、女のほうはいまどきの娘《むすめ》らしく、なかなかがめつくって、彼の収入ぐらいでは、とても結婚《けつこん》する気になれなかったらしいよ」 「そうすると、森岡信男のほうも、いちおうは疑って疑えないこともないわけだね?」 「うん……ただ彼は絶対にあのとき、死体を動かすことは出来なかったはずだ。石田鉄二に、電話をかけるようにいわれて、そのあと、彼も警察に同行しているのだからね」 「そうだな。もっとも、あの二人がそろって嘘《うそ》をついているとすれば、話は全然変わって来るが」 「あの二人が共犯《きようはん》だとは考えられないな。第一、彼等《かれら》が犯人だとしたら、なぜ、あんな妙《みよう》な話を持ち出す必要があるんだい? どう考えたって理屈《りくつ》にはあわんとも」 「うむ」  英策は新しい煙草《たばこ》に火をつけて、 「瀬川綾子の、ほかの男関係はどうかな?」 「処女でなかったことはたしかだね。ただ、彼女に惚《ほ》れている男は、かなり沢山《たくさん》いたようだが、彼女が体を許したほどの深間《ふかま》な相手は見つかっていない。その点は目下《もつか》調査中だ」 「石田宏一や鉄二とは、関係がなかったのかな?」 「僕も当然そのことは考えて見たよ。ただ、現在のところ、たしかな証拠《しようこ》は上がっていないというほかはないな。また、人眼《ひとめ》をしのぶ恋仲《こいなか》というものは、なかなか微妙《びみよう》だから、ちょっと捜査も厄介《やつかい》でね。まあ、あんたにこんなことをいうのは釈迦《しやか》に説法《せつぽう》だろうが」  警部はハンケチで額《ひたい》の汗《あせ》をぬぐうと、 「あの兄弟《きようだい》については、とかくの噂《うわさ》もあるが、この事件とは、あまり関係もなさそうなんでね」 「はっきりいって、どうも評判はよくないようだ。僕がうちの野々宮《ののみや》君にいって、調べさせたところでもね」  英策が事もなげにいったので、警部のほうもびっくりしたようだった。 「相かわらず手まわしのお早いことだ。どこまでほじくり出したんだね?」 「たいしたことはないけれどもね。石田宏一という男は、強欲《ごうよく》の塊《かたまり》みたいな人間で、金儲《かねもう》けのためなら、義理も人情もふみにじって平気だというようなことを聞き出した。これなどは、僕の第一印象通りだったね。それから弟のほうは、むかしは御乱行《ごらんぎよう》つづきで、詐欺《さぎ》や横領《おうりよう》みたいなまねまでやったらしいな。たしか、一度は執行猶予《しつこうゆうよ》だったらしいが」  黒崎警部は眼をまるくしていた。 「おそれいったな。部下の報告と同じだよ。身元調査は、私立探偵《しりつたんてい》の専門か知れないけれど、昨日《きのう》の今日《きよう》というのにたいしたものだ」 「野々宮君は、こんなことにかけては、実に要領がいいのでねえ。もう一つ、つけ加えれば、ここ二、三年、石田鉄二の素行《そこう》はおさまって来て、どうやら肩書《かたがき》を辱《はずかし》めないぐらいの人物にはなって来た。もっとも、また変なことをやらかしたら、あの兄貴《あにき》は、自分の弟だろうが、何だろうが平気でおっぽり出すだろうから」 「ますますもって申し分ない報告だな……それはそうとして、五代目の親分、あんたはどんな見こみをつけているんだい?」 「僕だって、まだ見当はついていないさ。関係者のアリバイはどうなっているんだい?」 「関係者といっても、いまのところ、これという人物はいないんだがね。とにかく、石田宏一は、昨日の四時すぎには、車を運転して自宅へ帰る途中《とちゆう》だったというんだ」 「彼は運転手を使っていないのか」 「時には、会社の誰かに運転させることもあるが、たいていは自分でやるらしいよ。弟よりかえって見栄《みえ》は張らないらしい。逆にいえば、それだけ、がめついともいえるだろうが」 「なるほど、一代で身上《しんしよう》を築きあげようとするには、そこまで無駄金《むだがね》を使わない精神に徹《てつ》する必要があるのかな」  英策は妙《みよう》なところに感心していたが、すぐに言葉を続けて、 「石田鉄二と森岡信男のほうも、いちおうは調べて見たろうね?」 「もちろんだ。しかし石田鉄二のほうは、まず疑う余地はないねえ。彼は午後ずっと会社にのこっている。それから森岡といっしょに例の家へ出かけて行ったわけだね。森岡のほうは、一時ごろ会社を出て、あちこち取引先をまわって四時ごろ帰って来ている。その間に殺人をする余裕《よゆう》がなかったとはいえないが、さっきもいった通り、魔法使《まほうつか》いでもなかったら、死体を消すことは出来んだろう。次に大西令子だが……」  警部はちょっと間をおいて、 「僕には彼女がいちばん臭《くさ》いような気がするな。別にこれといって理由はないが、職業的な勘《かん》だろうね。とにかく彼女と瀬川綾子は、いっしょの職場で働いていたのだから、ライバル意識もなかったとはいえまい。うわべは親しそうに見えても、誰か男を中にはさんで敵意を燃やしあっていたかも知れないな」  英策はこの意見に対しては、何とも批評を加えずに、 「彼女にアリバイはないのかね?」 「綾子と別れた後で、銀座《ぎんざ》をぶらついたり、買物をしたり、食事をしたりして、七時ごろ家へ帰ったといっている。たしかなアリバイもないかわり、それが嘘《うそ》ともいいきれない」  そのとき電話のベルがなった。警部は受話器をとりあげて、 「こっちは黒崎……ああ、芝野《しばの》君か。なに?……ふむふむ……そいつは面白《おもしろ》い。よし、わかった、御苦労さん」  受話器をおいたとき、警部の顔には、やっと一筋の光明《こうみよう》を見出したような明るさがあらわれた。 「芝野|刑事《けいじ》が、いま耳よりな話をかぎつけたんだよ。あの家に今度客を世話した不動産屋の竹林千蔵《たけばやしせんぞう》という男はね、被害者《ひがいしや》と面識があったらしい……いずれ、こっちへつれて来るそうだがね」 「その結果も聞きたいと思うがね。あいにく今日は、ほかにも回るところがある。ではまた」  英策は警部の肩《かた》をたたいて部屋《へや》を出た。   二人目の死者  次の朝、いつもより少しおそめに、英策が事務所へ出かけて行くと、秘書の池内佳子《いけうちよしこ》が、待ちかねていたような顔で、 「先生、ついさっき、黒崎さんからお電話がございまして、おいでになったらすぐ連絡《れんらく》してほしいということでございました。江古田《えごた》署の捜査《そうさ》本部に行っておられるようです」  英策はうなずいて、すぐに電話のダイヤルをまわした。 「いったい何事が起こったんだ?」  とたずねると、意気銷沈《いきしようちん》したような警部の声がひびいて来た。 「大失敗だったよ。もう少し、見はりを厳重《げんじゆう》にすべきだった。ちゃんと尾行《びこう》をつけておくべきだったのに、おれもすっかりやきがまわったらしい……」 「いったい、どうしたというんだい?」 「大西令子が死んだんだ……」 「大西令子が?」  英策もさすがにぎくりとしていた。 「殺されたのか?」 「自殺か他殺かまだはっきりしない……ともかく、死因は青酸系の毒物、死亡推定時刻は昨夜の十一時ごろだ。現場は代々木《よよぎ》の彼女のアパート、われわれはいちおう自殺ではないかと睨《にら》んでいるのだが……」 「つまり、大西令子が瀬川綾子を殺し、罪の呵責《かしやく》に耐《た》えかねて、自殺してしまった——という見方だね?」 「そうなんだ。実はね、大西令子の部屋《へや》を捜査《そうさ》したところが、たいへんなものが発見されたんだよ。例の家の合鍵《あいかぎ》なんだ……」 「鍵がもう一つあったわけだね」 「ああいう鍵を作ることが、そんなに難しくないのはあんたも知っているだろう。何かのおりに蝋《ろう》か粘土《ねんど》で、本物の鍵の型さえとればねえ。石田鉄二は本物を事務所の机の中に入れていたといっている。だから、大西令子にして見れば、合鍵《あいかぎ》を作るぐらいは、朝飯前《あさめしまえ》の芸当だったろうよ」 「それはたしかにその通りだろうが、それでは彼女は何だって、瀬川綾子をあの家で殺す必要があったのかね」 「あの家だったら、しばらくは死体も発見されなかろうと思ったからじゃないのかな……ともかく、合鍵が発見されたことと、大西令子が死んだことは、厳然《げんぜん》たる事実だからな」 「しかし、彼女は、自殺しなければならないほど、追いつめられていたわけじゃなかろう」 「それはそうだが、そこはやっぱり娘のことだし昨日|尋問《じんもん》したときの僕の態度《たいど》から、何かの不安を感じていたのかも知れないな」 「だが、警部殿、しっかりしてくれよ。誰かが大西令子を殺して、その部屋へ合鍵をほうりこんでおいたという可能性もないじゃあるまい」  受話器からは妙な音が聞こえて来た。警部が自分の額をびしゃりとたたいたのだろう。 「そうか……そういうことも考えられるな。どうも昨日から風邪《かぜ》をひいたか、頭がなまになっている」 「まあ、この段階では、まだ断言は出来ないがね……周旋屋《しゆうせんや》のほうはどうなったんだ」 「この男が、瀬川綾子と知合いだったということは話したかな? 彼女はこの会社へ入る前、ある証券会社の外交員をやっていたんだね。家庭を訪問して、投資信託《とうししんたく》か何かをすすめる仕事だよ。だから、やっこさんのほうに、何かほかの野心がなかったともいえないが、かなり大口の投資をしたので、顔も名前も知っているというんだよ」 「くさいな。色と欲との二筋道《ふたすじみち》ということもないではなかろう」 「全く好色漢《こうしよくかん》らしいがね……ただ、それだけで殺人犯人とはきめられないさ。いかにアリバイがないといってもね」 「ほかには何か?」 「念のために、会社の連中を一人一人洗っているが、これという線は出ていないんだ」 「そうか……まあ、あんまり力をおとさずにもう少し調べて見ることだな。僕のほうものりかかった舟だから、ひとつ徹底的《てつていてき》に洗って見るよ」  英策はそういって電話を切ったが、それから五分もしないうちに、助手の野々宮青年が眼を輝《かがや》かして入って来た。 「先生、例の調査を進めて見ましたが、どうやら、先生のねらいには狂《くる》いがなさそうです」 「やっぱりそうか?」  英策もかすかな笑いを浮《う》かべてうなずいた。 「毎度のことですが、先生の眼力には敬服あるのみですよ。北斗製氷の松崎社長は、ここ二か月ばかり、胃潰瘍《いかいよう》で、ほとんど社へは顔を出していません」  英策は、この報告に耳をかたむけながら何かの作戦計画を思案し続けているようだった。   逆《ぎやく》もまた真《しん》  その日の午後は雨だったが、夜になってからはやっと小やみになった。空は曇《くも》ったままで星影《ほしかげ》一つ見えない。この殺人の舞台《ぶたい》となった石田宏一の持家《もちいえ》は、漆黒《しつこく》の闇《やみ》に包まれたままぶきみに静まり返っていた。  午後八時ごろ、クリーム色のレインコートを着たわかい娘《むすめ》が、ためらいがちに、この家へ近づいて来た。そっとあたりを見まわしながら、門をくぐり、庭の植込《うえこ》みのあたりで立ちどまった。  何分かがすぎた。ふいに、女の前に、一人の男が姿をあらわした。 「待ったか?」  女はほっと溜息《ためいき》をついて、 「やっぱり来たわね……お金は用意して?」  男のような、どすのきいた声で聞いた。  相手の男はうなずいて、娘の顔をのぞきこむと、 「かわいい顔をしているくせに、強請《ゆすり》をやろうとはあきれたものだ……まったく、近ごろの女の子と来た日には、油断《ゆだん》も隙《すき》もならないよ」 「おたがいさまね。れっきとした紳士《しんし》で通っているあなたが人殺しを……」 「やめろ!」  男は声に力をこめて、 「いやみはいうな。商談にかかろう」 「いいわよ。ただ、わたくしは男も女も、お金がほしいのはおなじでしょうといいたかっただけよ。さあ約束《やくそく》のものを早く渡して。そのかわり、あの晩、綾ちゃんがあなたにあう約束をしていたことは誰にも話さないし、午後八時ごろ、わたしが綾ちゃんと……」 「わかった、わかった」  男は吐《は》き出すようにいった。 「ほかからばれる気づかいはなかろうな?」 「大丈夫《だいじようぶ》、綾ちゃんが打ちあけたのは、わたしだけよ」 「おれをだましたら承知しないぞ」 「ひどいわねえ……わたしはせっかくつかんだ金づるを手からはなすようなばかじゃないわよ」  ほんのわずかの間があった。男の両眼《りようがん》が闇《やみ》に、ぎらりと燐光《りんこう》を放ったようだった。  女も失言に気がついたらしく、 「何でもないわ……わたしだって、強請《ゆすり》でひっぱられるのはまっぴらだから、そんなばかげた密告はしないつもりなのよ」 「嘘《うそ》をつけ!」  男は女の胸ぐらに手をかけて、 「これからさき、何度もおれをゆすろうという魂胆《こんたん》か? 死ぬまでおれを絞《しぼ》りつづけようというつもりか?」 「違《ちが》うわ……違うわ……」  女は必死に抗弁《こうべん》したが、男は狂暴《きようぼう》なそぶりで女の体を抱きしめた。 「そうはさせない……させるものか。お前もいっしょに、あの世へ送りとどけてやる。地獄《じごく》で、何とでもほざくがいい」 「わたしを殺したら……すぐに警察へ知らせが行くようになっていて……」 「ふん、そんな古い手にのるものか」  男の手が女の首すじにのび、力まかせに絞《し》めあげようとした瞬間《しゆんかん》だった。暗闇《くらやみ》からおどり出たもう一つの人影《ひとかげ》が、男の襟首《えりくび》をつかんだと見る間もなく、最初の男の体は二メートルも後ろへふっとび、蛙《かえる》のように地べたに、はいつくばってしまった。 「とうとう尻尾《しつぽ》を出しやがったな。二つの殺人、そして一つの殺人未遂《さつじんみすい》、今度は現行犯《げんこうはん》だから、警官でないおれが逮捕《たいほ》しても文句はないはずだ」  鉄火《てつか》な、大前田英策の啖呵《たんか》が闇に流れた。地べたにはった男は、ようやく顔をあげて、 「そ、そっちの娘もつかまえろ……そっちも強請《ゆすり》の現行犯だ。おれは死刑《しけい》かも知れないが、こいつにも当分、くさい飯《めし》を食わせてやらなきゃあ……」  とわめきつづけた。 「はははは、ひかれ者の小唄《こうた》とはこのことだな。こっちのお嬢《じよう》さんは、おれのところの池内佳子君だ。なかなか芝居《しばい》がうまいだろう」  英策は豪快《ごうかい》な笑いとともにいってのけた。  懐中電灯《かいちゆうでんとう》の光が流れ、野々宮青年と一人の警官が姿を見せた。 「御苦労さま、瀬川綾子と大西令子の殺人犯人、石田鉄二をおわたししますよ」 「また、あんたに借金を作ってしまったな」  それから二時間ぐらいして、捜査《そうさ》本部で黒崎警部は、英策にむかって溜息《ためいき》をついていた。 「べつに気にすることはないさ。この借金は無期限無利息|無催促《むさいそく》だからね」 「しかし、気持の負担は残るよ」 「どうしても気になるというのなら、僕と池内君に、金一封を包みたまえ。依頼者《いらいしや》がつかまったおかげで、この事件は完全な持ち出しになってしまったし、池内君は犯人|逮捕《たいほ》のために、かなりの危険《きけん》をおかしたのだからな。まあ、金一封の中味は、どうせあけてびっくり雀《すずめ》の涙《なみだ》に違《ちが》いなかろうが、それにしても、気は心ともいうからな」  英策は豪快《ごうかい》に笑って言葉を続けた。 「それはともかく、石田鉄二がうまくさそいにのって来て、事件が一挙《いつきよ》に片づいたのは何よりだったよ。僕も、事がこれだけうまく運ぶかどうかということには、若干《じやつかん》不安があったんだがねえ」 「石田鉄二に眼《め》をつけたのはどういうわけだい?」 「例の死体|消滅《しようめつ》の問題をよく考えて見ると、そういう結論が出て来るのだよ。あのときも話したように、犯人が急いで死体をかくしたと考えるのは、どうも理屈《りくつ》にあわないよ。だから僕はあのときやはり死体はなかったのじゃないかと思ったんだ」 「しかし、たとえわずかの間にもせよ、森岡信男も死体を見ているんだよ。やはり、彼も共犯《きようはん》なのか?」 「違《ちが》う。森岡が見たのは瀬川綾子の死体じゃなかった。大西令子主演の殺人|予告篇《よこくへん》だったんだよ」 「殺人予告篇? ああそうか……大西令子のほうが共犯で、あそこで死んだふりをしていて、彼等《かれら》が電話をかけに行っているあいだに、さっさと消えてしまったんだね」 「その通りさ。だからあんたが大西令子をくさいとにらんだ勘《かん》も、まんざら的《まと》はずれではなかったわけだ。石田鉄二は、共犯者の口から真相がもれることをおそれて、さっさと彼女を抹殺《まつさつ》してしまったのだろう。おそらく、この二人の間には、肉体関係もあったろうが、石田鉄二もよくよく冷酷《れいこく》な男だねえ」 「大前田さん、ちょっと待ってくれ。いったい何のために、殺人予告篇などを上演する必要があったんだね?」 「自分のアリバイを作るためさ。つまり、実際に瀬川綾子が殺されたのは、推定時刻よりずっと後だった。あの日の夜おそくと見るべきだったよ。それを夕方、五時ごろに見せかけるには……」 「だが、検屍《けんし》の科学的データーをごまかすにはどうしたんだ?」 「警部殿、ふつう死亡推定時刻というものは、死後二十四時間ぐらいまでは、直腸内《ちよくちようない》の体温変化から割り出すものだね。この体温を下げてやれば、実際よりかなり早く死んだように見せかけることも出来るだろう」 「すると、彼の会社は氷を造っているんだから、氷室《ひようしつ》に?」 「それも一つの方法だ。また、抱水《ほうすい》クロラールを注入してやれば、局部的に温度は下げられると聞いている。法医解剖《ほういかいぼう》でも、直腸までは、特に気がつかないかぎり、やらないかも知れないしね」 「まったく、捜査の科学技術が進めば、犯人のほうもまたその裏をかくような新手《あらて》を考え出すからな。永遠のいたちごっこだよ」  黒崎警部も溜息《ためいき》をついた。 「だが、それだけなら、森岡信男が犯人だという可能性もあったわけだね」 「それは考えられないでもないが、あの家を舞台《ぶたい》に選ぶとなると、やっぱり石田鉄二のほうが、可能性は高いわけだろう。それで、野々宮君に命令して、いろいろ調べさせて見たが、石田のほうは、商品相場で失敗して、財政も逼迫《ひつぱく》していたらしいよ。社長が病気中なのをいいことに、会社の金を流用して、何とかその場つなぎをやっていたようだが、あの兄貴《あにき》では、それがばれたら、弟の苦境《くきよう》を救うどころか、かんかんになって、くびにしてしまうだろう。下手《へた》をすると、刑事《けいじ》問題にならないとはいえないよ」 「でも、そのほうが人を殺すよりまだましだと思うがねえ……まったく犯罪者というものは、物の比重が見えないものだ。それを会計の瀬川綾子が、かぎつけたのかな」 「その辺は、僕にもはっきりしないがね。ひょっとしたら、石田鉄二を脅迫《きようはく》したんじゃないのかな。彼女もだいぶがめつかったようだし……そうでなかったら、鉄二のほうが、自分の罪をなすりつけようとして殺したのか、それを調べるのはあんたのほうの仕事だな」 「うん、そこまでそっちにまかせた日には、こっちも税金泥棒《どろぼう》といわれるかも知れないからな」  黒崎警部も苦笑していた。 「ただ、さっきのアリバイのことだが、これにはひとつ、大きな穴がないだろうか? もし六時以後に、生きている瀬川綾子を見た人物が出て来たら、犯人の計画は万事御破算《ばんじごはさん》になったじゃないか」 「そこをこっちが逆用したんだがねえ。犯人の側でも、いちおうの対策は講じていたさ。石田鉄二は午後八時ごろ、こっそり瀬川綾子とあう約束《やくそく》をする……いっぽう、大西令子は被害者《ひがいしや》をさそって、二本立ての映画でも見にゆく。映画館へ入る前に、どこかでうまくひまつぶしをして、三時ごろ入場したとするね。それから大西令子のほうは、急用を思い出したとか何とかいって、予告篇《よこくへん》を演ずるためにそこからぬけ出す……瀬川綾子は、約束の時間までべつにすることもないはずだから、そのまま暗い映画館の中で時間をつぶしているだろう。二本立てだと終るのは七時ごろかな。それから食事ぐらいしたとしても、知っている人間に顔をあわせる可能性はごく少ない」 「なるほどな……だが考えて見れば皮肉なものだねえ。大西令子は、ある意味で、自分自身の死の予告篇を演じていたことになるじゃないか。みだりに……信用すべからずだね」 「その逆《ぎやく》もまた真《しん》なりさ。あんたが二人の警官を信頼《しんらい》していれば、このトリックにもとっくに気がついていたかも知れないね」  苦笑いしている黒崎警部に、英策は一枚の紙片をわたした。 「これもまた、逆も真なり——の口かも知れないねえ」  これは石田鉄二の精神|鑑定書《かんていしよ》なのだった。  失われた過去《かこ》     一  私立探偵|大前田英策《おおまえだえいさく》は、その晩、新宿《しんじゆく》の行きつけの「リド」というバーで飲んでいた。  結婚《けつこん》してから、ずっと酒量は下がったが、それでも酒なら一升、ビールなら一ダースを平気であけて、翌日に酔《よ》いを持ち越《こ》さないというのだから、さすがに、むかし、 「おれの名字《みようじ》は女へんに早い、名前は酒の下に強いと書くのだ」  と豪語《ごうご》した当時の面影《おもかげ》はまだ残っている。  こういう酒場で、女を相手の話といえば、とかくとりとめない話題に終始するものだから、民子《たみこ》というおなじみの女が、その耳に口をよせて、 「先生、アモネジャというの御存じ?」  といい出したときには、本気で考える気にもなれなかった。 「フランスの絵描《えか》きか?」 「違《ちが》うわよ」 「どうせ、君のおぼえている横文字だ。飲んですぐきく避妊薬《ひにんやく》か?」 「いやらしい、先生……病気の一種じゃないの」 「どんな病気だ? そいつにマイシンはきくんかね」 「ペニシリンでもマイシンでもきかないようよ」 「すると、精神病の一種か?」 「まあね……」  民子は笑って、グラスをとりあげ、赤いワインを一口すすった。 「それも、先生にはとっても興味のありそうな病気よ」 「おれは精神異常者にはあまり興味がないな。まあ犯罪者という人種は、大なり小なり、精神異常者だ。だから、そういう意味での精神異常者だったら、大いに食指を動かすがね」 「いまとか、将来とかはべつに、過去《かこ》に何かの犯罪に関係がありそうだったら」 「こいつは、おれの泣き所を知ってやがる」  英策は、ハイボールのコップをとりあげて笑った。 「女の人が、殺されかけて、それまでの記憶《きおく》をすっかりなくしてしまったら?」 「何だって」  英策の笑いは途中《とちゆう》でとまった。ぐっとコップを握《にぎ》りしめて、 「それはいわゆるアムネジャか? 記憶喪失症《きおくそうしつしよう》のことをいうのか?」 「そう、アモネジャじゃなくって、アムネジャとかいったわね」  英策は一瞬《いつしゆん》、眼《め》をとじた。  人間が、頭に何かのショックをうけた場合、それまでの記憶をすべて失ってしまうことがあるのは、彼も理論としては知っていた。もちろん、万人に一人というような珍《めずら》しい例だが、そういう目にあった人間は、妻も忘れ子供も忘れ、過去のすべてを失って、別人として人生をふみ出さなければならなくなる。  そして、もし万一の偶然《ぐうぜん》がいま一度働くようなことがあれば、彼は第二のショックによって、失われた過去をいま一度、とりもどすことがないとはいえない。  その場合には、逆に二度のショックの間の人生は、たとえ何年の年月だろうと、完全に記憶の中から失われてしまうのだ。ふたたびもとの生活はとりもどせるが、その心には、大きなブランクが残るのである。  こういう話は、英策も、いちおう知ってはいた。しかし、そういう人間に出あったことは今まで一度もなかった。満身、闘志《とうし》と好奇心《こうきしん》の塊《かたまり》のような英策が、とたんに激《はげ》しい興奮を感じたのも無理はない。 「君は、そういう人間を知っているのか?」 「ええ、この店につとめているわ」 「何だって?」  また英策は眼《め》のくらむようなショックを感じた。もちろん、こういう特殊《とくしゆ》な精神障害は、専門の医者でもなければ、本物か偽物《にせもの》かはわからない。酒場の女給などという人種は、お客の関心をひきつけるために、すごくはでなロマンチックな半自叙伝《はんじじよでん》を創作することは珍しくもないが、このアムネジャも、そういう作品の一つではないかと思ったのだ。 「証拠《しようこ》があるのか?」 「ええ、お風呂《ふろ》でいっしょになって見たけれど、背中に大きな傷痕《きずあと》があるの。それも、短刀か匕首《あいくち》で刺《さ》されたような……」 「どうだ。彼女をつれて来てくれんか」  民子は立ち上がって奥《おく》へ行くと、二十五、六かと思われる女をつれて帰って来た。 「大前田先生、これが晴美《はるみ》さんよ」     二  たしかに年だけからいえば、こういう店につとめる女としては、いくらかとうが立っているような感じだが、それでも晴美は美しかった。  何となく、白痴美《はくちび》というような感じはないでもない。ただ、その大きな眼《め》はふしぎな色に燃えていた。なにか、自分の力ではおよびもつかない大きな秘密の解明を、必死に求めているような印象だった。そして、全身にはどす黒い奇妙《きみよう》な影《かげ》がまつわりついていた。一度、地獄《じごく》の猛火《もうか》の中に転がり落ち、そこからのがれて、また地上へ舞《ま》いもどって来た女——人によっては、そんな批評を下すのではないかと英策は思っていた。  もちろん、ふつうの人間なら、そこまでは気がつかなかったかも知れない。しかし、犯波探知機《はんばたんちき》と自称するぐらい鋭敏《えいびん》な彼の特殊《とくしゆ》感覚は、一瞬《いつしゆん》にこれだけの印象を捕《とら》えていたのである。  かるい、大して意味もない会話のやりとりで気分をほぐした後で、英策は思いきってたずねた。 「ねえ、君、君が自分の過去《かこ》の記憶《きおく》をいっさいなくしてしまったという話、いまこの人から聞いたんだけれど、いったいそれは本当かね?」 「ほんとうですわ……」  晴美は大きな溜息《ためいき》といっしょに、 「わたくしは、六年前のある晩に生れかわってしまったんです。いいえ、それまでのわたくしが死んでしまって、地獄《じごく》から生れかわって来たとでもいったほうがいいかも知れません」 「どうだ。その話を聞かせてくれないか」 「こういう場所ではどうですかしら?」  さすがに晴美はちょっとためらっているようだった。しかし、いったん口を開くと、その物語は流れるように続いた。 「あれは、昭和三十年の九月十四日のことだったそうです。横浜《よこはま》の弘明寺《ぐみようじ》に近いところの橋の上で、わたくしは雨に濡《ぬ》れながらのたうちまわっていたのだそうです。このあたり、ちょうど心臓の上の辺を、後ろから短刀で刺《さ》されて、死にかけていたのだそうです」  晴美の声にはふしぎな影《かげ》があった。音楽でいうならアルトの声質だが、それが暗い響《ひび》きを残して英策の耳をうつのだった。 「ちょうどそのころ、現場の近くを歩いていた会社員の人が、わたくしを見つけて、あわてて交番へ知らせたのだそうです。わたくしはすぐ、近くの病院へはこばれて手当をうけたそうです。一時は出血多量でどうしても助かるまいといわれたらしいのですが、九死《きゆうし》に一生というのは、あんなことをいうのでしょうか。奇跡的《きせきてき》に命はとりとめましたのね」  まるで、第三者の身におこった事件を物語っているような淡々《たんたん》とした調子だが、それがかえってその内容に現実感を与《あた》え、ぶきみな雰囲気《ふんいき》をかもし出した。 「ところが、意識をとりもどしてから、わたくしは記憶《きおく》をとりもどせなかったのです。外傷はのこっていませんけれど、倒《たお》れたとき、橋の鉄《てつ》の手すりに頭を打ったのが原因だったようですが、名前も住所も、それまで何をしていたかということも、ぜんぜん思い出せませんでした。警察のほうも真剣《しんけん》に調べては下さったのですが、何の効果もありませんでした。誰ひとり、病院へたずねて来る人もなかったのです」 「それから後は?」 「それから後は、第二の人生でした。しばらく横浜にいましたけれど、何となく、東京が恋《こい》しくてたまらなくなって来たんです。東京には何かある。わたくしの消えてしまった過去《かこ》の半生につながる何かがひそんでいる——こう思うと、矢《や》も楯《たて》もたまらなくなって、こっちへ移って来たんです。ただ、それはいままでつかめませんでした。暗中摸索《あんちゆうもさく》というような言葉もありますけれど、わたくしのこの六年の年月は、ほんとうに暗中摸索の連続でしたのね」  晴美は、話し終って溜息《ためいき》をついた。おそらく、おなじ物語を、何百度かくり返したのだろう。その話しかたは、実に洗練されていて文学少女的な印象さえ与《あた》えたのだった。 「なるほど、世にもふしぎな物語だね」  英策は、あいづちを打って、残ったハイボールを一口すすった。 「晴美さん、お手紙、メッセンジャーが持って来たわ」  そのとき、一人の女が近づいて来て、一通の白い角封筒《かくふうとう》をわたした。 「先生、ちょっとごめんなさいね」  晴美はそれをうけとって立ち上がったが、数分後、席へもどって来たとき、その体はがたがたと、歯の根もあわないようにふるえていた。 「先生、この手紙をごらんになって!」 「どうした? 人のラブレターを読ましてもらっちゃすまないが」  といいながら、ライターをつけて、その手紙に眼《め》を通した英策は、ぞっとするような恐怖《きようふ》に捕《とら》えられてしまったのだ。 「記憶《きおく》をなくした女、晴美さんにお知らせします。  あなたは自分の過去《かこ》が知りたくありませんか。恐《おそ》ろしい暗い秘密に包まれた前半生をふり返りたくはありませんか。  知りたかったら、今夜のうちに、目黒大岡山《めぐろおおおかやま》にある松風荘《しようふうそう》というアパートをお訪《たず》ねなさい。その二階、二三号室へおいでなさい。  そこに一人の男がいます。由井晴之《ゆいはるゆき》という男です。今夜にも姿を消すかも知れない男ですが、彼だけが、あなたの過去を知っています。むかしのあなたとは、切っても切れない宿縁《しゆくえん》に結ばれていた男なのです。彼にあなたの半生をたずねてごらんになれば、すべての秘密はわかるでしょう。  疑ってはいけません。チャンスは一度失われたら、二度と帰って来ないのです」  読み終った英策は眼《め》をあげて、まだふるえている晴美の眼を見つめた。 「どうする?」 「わたくし行きます。いまからすぐに」 「僕もいっしょに行ってやろうか」 「おねがい出来ます?」 「この手紙を見せたのは、そのつもりだったんじゃないのか。まあ、何にしろ、こんな事件をみのがした日には、先祖の大前田英五郎《おおまえだえいごろう》の名前にもかかわるし、四、五日飯がまずかろう」  英策は豪放《ごうほう》に笑ったが、彼の頭の犯波探知機《はんぱたんちき》は、そのとき、別の恐ろしい波動《はどう》を感じていたのだった。     三  二人はすぐに、大岡山へ車を飛ばした。  まだ冬というわけではないのに、氷雨《ひさめ》に似た冷たい雨が降りそそいでいる。底冷えのする天気だった。  松風荘というアパートは、大岡山駅の北口から、十分ほど走ったところにあった。木造の古い二階建の建物だった。  二三号室は灯が消えていた。外から見ては中の人間が外出しているのか、どうか見当がつかない状態だった。 「先生……」 「まず、僕にまかせておきたまえ」  英策はゆっくりドアをノックした。 「どなたです?」  中からは不機嫌《ふきげん》そうな男の声が聞こえた。 「急用です。お休みのところ申しわけありませんが、僕は大前田という者です。晴美さんという女の人のことについて、ちょっとお話したいのです」 「晴美さん? そういう人は知りませんがねえ」  寝《ね》ぼけたような声でいいながら、寝床《ねどこ》から起き上がって来たらしく、その直後、寝間着姿《ねまきすがた》の男がドアを開けた。  英策の第一印象でも、この男には、どこか異常な感じがあった。髪《かみ》は油気《あぶらけ》もなく、針ねずみのとげのようにばさばさつっ立っている。顔色は青白く、体全体が、肉はあるのかと思われるほどやせ衰《おとろ》えている。そして、二つの眼《め》だけが、妙《みよう》な動物的な光をはなっているのだった。 「あなたは! あなたは、貴美子《きみこ》さん!」  幽霊《ゆうれい》でも見たような叫《さけ》びが、突然《とつぜん》、男の口からとび出した。英策もさっと後ろをふりかえったが、晴美は冷静そのものだった。  いや、必死に男の顔を思い出そうとしているのだろうが、それをどうにも出来ないもどかしさが、冷たい印象を与《あた》えたのかも知れない。 「ちょっとお待ちになって下さい。いますぐかたづけますから」  といって、相手は部屋《へや》へひっ返した。 「思い出したかい? あの男を」 「どこかで、むかしあったような感じはします。でも、それがいつか、どこのことだったかは、どうしても思い出せません」  胸をおさえて、晴美はひくくつぶやいていた。間もなく部屋のドアが開いて、男が二人を迎《むか》えいれた。  六|畳間《じようま》だが、何となく荒れた感じの部屋だった。独身で、家財道具も最小限しか持っていないのだろう。 「由井晴之さんですね。私はこういう者ですが……」  英策が出した名刺《めいし》をとりあげたとき、相手の手はぶるぶるとふるえていた。 「探偵《たんてい》さん、それがどうして?」 「実はこういう手紙が来たとき、偶然《ぐうぜん》店にいあわせたので、ナイトの役をつとめにやって来たのですよ。この晴美さんは、貴美子さんというのが本名かも知れませんがね。六年前に横浜で誰かに刺《さ》されて、それから前の記憶《きおく》は全部なくしてしまったようですがね」  英策がこういっているあいだに、由井晴之は何度か顔色を変えていた。自分の動揺《どうよう》をごまかすように、戸棚《とだな》からウイスキーの壜《びん》を出し、小さなちゃぶ台の上において、三つのグラスにつぎわけると、 「お茶がわりにどうぞ」  といったが、酒豪《しゆごう》の英策でさえ、そのグラスには、手をつける気にもなれなかった。  そのとき、窓の雨戸《あまど》に、何かがたたきつけられるような音がした。 「あれは?」 「誰かの悪戯《いたずら》かしら? 石でもたたきつけたのかしら」 「見て来ましょう」  由井晴之は立ち上がって、入口の襖《ふすま》を開けたが、その瞬間《しゆんかん》、またおどろいたように声をあげた。 「先生、ここにこんなものが!」  英策も立ち上がって土間《どま》をのぞいた。自分たちの入って来たときには、たしかそんなものはなかったはずなのに、いつの間にか、白い角封筒《かくふうとう》が、ドアの下の隙間《すきま》からさしこまれていたのである。  無意識のうちに、英策はその封筒をひろい上げ、中の手紙に眼《め》を通していた。  それは、バーの晴美のところへとどいた手紙と同じ便箋《びんせん》、同じ筆蹟《ひつせき》だった。  しかし、そのいわんとする内容は、これが同一人の考えかと思われるくらい、正反対なものだった。 「由井晴之さまに申しあげます。  今夜、あなたのところへは、一度、あなたを裏切った女、木下貴美子《きのしたきみこ》が訪ねて来るでしょう。だが、彼女は呪《のろ》いに憑《つ》かれています。六年前、短刀の一撃《いちげき》で倒《たお》されて、地獄《じごく》の底からよみがえっては来たものの、その代償《だいしよう》に自分の記憶《きおく》も完全に失ってしまったのです。彼女にその過去《かこ》の秘密を告げてはなりません。その記憶をよみがえらせるのは禁物《きんもつ》です。  この警告を無視したら、あなたには恐《おそ》ろしい死が訪れて来るでしょう」 「これは何だ……」  英策が呆然《ぼうぜん》とつぶやいたとき、雨戸のトタンの板には第二のつぶての音がした。 「由井さん、行って見ましょう」  英策は自分が先に立って走り出した。いざとなったら、人手を借りる必要もないことだが、格闘《かくとう》の始まる前に、あちらこちらを探しまわるようなことになると、付近の地理にくわしい人間がいた方が都合がよいと思ったからだった。  しかし、アパートの前まで飛び出して見ても、怪《あや》しい人影《ひとかげ》は発見できなかった。眼《め》をとじて、無念無想《むねんむそう》の境地に入っても、その見当さえつかなかった。 「だめですね」  英策は、早目に追求を切りあげて、部屋《へや》へもどった。武道で鍛《きた》えている彼には、このぐらいのことは別にこたえもしないが、由井晴之のほうは、ぜいぜい息を切らしていた。 「それでは、お毒見《どくみ》いたします」  晴之は、ウイスキーを水割りにすると、一気に半分近く飲みほした。晴美も一瞬《いつしゆん》おくれて、コップを口へ持っていったが、一口すすると、横をむいて、畳《たたみ》の上に吐《は》き出した。 「どうした? どうした?」  英策の鼻には、その時口もとまで運んだコップから、ぷーんと青酸っぽい匂《にお》いが伝わって来た。青酸系の毒物に特有の悪臭《あくしゆう》だった。 「毒! 毒だ!」  コップをちゃぶ台の上において、英策は叫《さけ》んだ。晴美は、いきなり立ち上がって入口の流しのほうにかけ出して行った。  由井晴之は、たちまち畳の上に倒《たお》れた。激《はげ》しい痙攣《けいれん》がその身をおそった。 「医者、医者だ!」  廊下《ろうか》へ飛び出して、英策はわめいた。管理人室へかけつけて、電話で医者を呼ぶようにたのみ、ついでに一一〇番へ電話をたのむと、彼はすぐ部屋へひっ返して来たが男は完全に虫の息だった。 「しっかりしろ! しっかり、いますぐ医者がやって来る!」  という声も耳には入らなかったろう。何より先に、吐瀉《としや》させるのだったと考えたが、もうそれも後《あと》の祭りだった。 「何か、何か、いいのこすことはないか!」  と叫んだ瞬間《しゆんかん》、ぴくぴくと最後《さいご》の痙攣がおそって来た。 「先生……」  恐ろしそうにつぶやいた晴美の顔を見あげて、英策は溜息《ためいき》とともに答えた。 「もうだめだ……しかし、この男はいったい何のために殺されたのだろう?」     四 「あんたと僕とは、よほど合性《あいしよう》が好いのか悪いのか、いったいどっちなんだろう。こうして何度も、事件のたびに、そっちに先まわりされた日にゃ、こっちもいいかげん神がかって来る」  英策の顔を見たとたんに、警視庁|捜査《そうさ》一課の黒駒《くろこま》親分こと黒崎駒吉《くろさきこまきち》警部は、腹の底からしぼり出すような溜息《ためいき》をついた。 「ところで、今度のガイシャとはどんな関係だ? つれの御婦人とガイシャとは、どんなつながりがあるんだね」 「あいにくさっぱり分からない。被害者《ひがいしや》は女のことをよく知っていたらしい。ところが、女のほうは、どういう深い関係だったかぜんぜんおぼえていない。これから、その話をはじめようとしていたところに、この事件だ」 「何だって!」  黒崎警部は、ペコ人形のように首をふった。 「あんたの話は、さっぱり分からん」 「こっちもぜんぜん分からないんだ。まあ最初から筋を立てて話すからゆっくり聞いてくれ。今度は何もカードはかくさない」  と前置きをして、英策は事件の最初からのいきさつをくわしく述べたてたが、警部は一言一言に、溜息で答えるだけだった。  その翌日、英策はまた参考人として、捜査《そうさ》本部へ呼び出された。  いちおう調書をとった後で、警部は英策にそれとなく手の内を打ちあけてくれる。  これが二人のこれまでの習慣だった。 「まったく奇怪《きつかい》な事件だよ。最初はあの女が犯人じゃないかと思って見たんだがねえ」  煙草《たばこ》の煙《けむり》を長く吐《は》き出して、警部は眼《め》をとじた。 「しかし、グラスの底に残っているウイスキーを調べて見たら、毒の割合はおなじだった。壜《びん》の中のパーセントとおなじことだ。すると毒は最初から壜の中に入っていたということになる」 「あのウイスキーは最初七分通り入っていたよ。最初にこんな事件がおこっていないとすれば、誰かが途中で毒をまぜたということになるな」 「そうだ。その誰かが問題だが、あの女には動機はないね」 「少なくとも、僕を殺すだけの動機はないと思うな。昨夜初めて会った女だ。天地神明《てんちしんめい》、何にでも誓《ちか》って、キス一つしていないんだ。それで毒殺された日には、僕も今まで、千べんぐらいは死んでいる」 「千人|斬《ぎ》りの被害者《ひがいしや》たちが犯人になればね。とにかく、あの女が毒を入れたという可能性はうすくなったな」 「前の事件のことが分かったのかね?」 「そうだ。横浜の警察に照会したが、六年前そういう事件があったことは間違《まちが》いない。その時の医者も、何度か精密な専門的検査をくりかえして、日本では珍《めずら》しい完全なアムネジャだと断定しているんだ。医学雑誌のほうにも、レポートがのっているそうだよ」 「それでは、詐病《さびよう》ということはあり得ないわけだね」 「九割九|分《ぶ》九|厘《りん》までは——したがって、もしあの女が犯人だとすれば、無動機の殺人ということになる。こんな馬鹿《ばか》な話はあるまい」 「では、問題はあの手紙の主だな。これをいま仮にミスターXとしよう。さて、このX氏は何者だ? いったいどんな目的で、百八十度もねらいの違《ちが》う、あんな手紙を両方に書きわけたんだ?」 「そいつこそ、完全無欠の精神異常者じゃなかろうか」  頭をかかえて、警部はうめいた。 「少なくとも、女は男の存在を知らなかったんだろう。男は女の過去《かこ》を知っていたとしても、いまどこにいるかは知らなかったわけだろう。この二人を知っているのが、いま問題のXだというわけだね」 「そこまでの推理には異存がないよ」 「だから、敵は精神異常者だというんだ。女には男を訪ねて行って秘密を聞けという。男には女がやって来ても秘密はばらすなという。この警告を無視すれば殺す——といって、まだ秘密も、打ちあけないうちに、さっさと殺してのけた。僕は、野ばなしになっている精神異常者を全部洗い出そうかとさえ思ったよ」  もちろんこれは、警部の冗談《じようだん》には違《ちが》いない。ただ英策は、その言葉のかげに、いま捜査陣《そうさじん》全体にみなぎっている焦慮《しようりよ》の感情を見てとった。 「まあ、このX氏は彼なりに、何かを考えていたのかも知れないよ。むこうとしては、こっちが頭で考えるほど、馬鹿《ばか》げたつもりはなかったかも知れない」 「どうしてだ?」 「猫《ねこ》が鼠《ねずみ》をからかうような場合だね。女は過去の自分を知りたくて必死になっている。それを、ここまでおいでとおびきよせておいて、いま一歩で、その秘密がばれるという瞬間《しゆんかん》に、ばっさり相手の息の根を止めたら——女を憎《にく》んでいたとしたら、これ以上、むごたらしいまねは考えられないくらいだよ」 「うむ……」  警部は腕《うで》を組んでうなった。 「あんまり感心しちゃ困るよ。あくまでこれは仮説なんだ。いちおう、X先生の心境は説明できるがね。しかし、これ以外にもいくつかの可能性はあると思う……ただ、これはよけいな口出しかも知れないが、仏《ほとけ》の身元は調べたのか? 過去をなくした女とか、正体もわからないXなどを探し出すのに血道《ちみち》をあげるよりは、眼先《めさき》の死体の身元確認にとりかかるのが捜査《そうさ》の常道じゃないか」 「お説たしかに御《ご》もっとも。とはいうものの、あんたから、捜査の常道というような言葉を聞くとは思わなかったがね」  黒崎警部はいかにもくやしそうだった。 「それがいっこうはかどらないのだ。もちろん、アパートのほうには、いちおう田舎《いなか》の住所も書きのこしてある。つとめ先の名前も書いてある。しかし、どちらへ照会しても、それらしい線は見つからない」 「とすると、いよいよ出《い》でて、いよいよ奇怪《きつかい》なことになるな。関係者三人、その三人が全部そろって、過去《かこ》が探れないとなって来ると」 「こういうことはいくらもあるよ。なに、事件は最初難しい方が、かえって張合いがある」  警部は胸をそらしながら、負け惜しみのようにいった。  その性格を知りぬいている英策には、この警部が何か有力な手がかりをかくしているのではないかというような疑いはおこらなかった。 「それでは、これで失礼するが、最後に一つだけ注意しておきたいことがある」 「それは?」 「仏の身元に関する調査だ。刑務所《けいむしよ》の出所者は調べたかね?」  警部は腰を浮《う》かしていた。 「それは髪《かみ》だよ。最近、刑務所によると、出所間際になると、髪《かみ》をのばす許可を与《あた》えて、ちょうど出所するころには、床屋《とこや》へ行ける程度にしておく所もあるようだけれどねえ。そこは所長の考え一つだから、まだ坊主《ぼうず》のまま出すところがあるかも知れない。僕の見た感じだと、何となく、別荘《べつそう》帰り直後のように見えたがねえ」 「そのことはすぐ調べるよ」  警部もやっとおちつきをとりもどしたようだった。  その翌日には、早くも英策のところへ電話がかかって来た。 「お説の通りだ。彼は二月ほど前に、千葉の刑務所《けいむしよ》を出所している。麻薬《まやく》と密輸で、五年の刑《けい》をいいわたされ、仮出獄《かりしゆつごく》にもならず、満期で釈放されたのだね。本名は小山十郎《こやまじゆうろう》という」  警部の声もはずんでいた。 「刑期《けいき》ぎりぎりまで、別荘ぐらしをしていたというのは、改悛《かいしゆん》の情が認められなかったということになるのかな」 「まあ、あの中の行状《ぎようじよう》は、刑務所の連中でなければ分からないけれども、何回か、罰則《ばつそく》を食っているという話だから、素行不良《そこうふりよう》ということになるんじゃないのかな」 「うむ……」  たしかに、あの男の顔には、本質的にそのような凶暴性《きようぼうせい》を秘めている感じがあった。  それが動物園のおりのような、刑務所《けいむしよ》生活で抑圧《よくあつ》されて去勢《きよせい》された野獣《やじゆう》のような印象を与《あた》えたのではないかと英策は思っていた。 「それで、むかしの彼のかせぎ場は?」 「横浜だった。黄沈福《おうちんふく》という中国人と組んで香港《ホンコン》あたりから、大量の麻薬《まやく》を密輸し、それを小売のルートにばらまいていたらしいな。黄は発覚以前に、国外へ逃亡《とうぼう》したので、彼だけが刑を受けたというわけだ。もちろんいっしょに、小物《こもの》も何人かつかまってはいるが、その連中は、いいかげん娑婆《しやば》へ、出て来ているだろう。まあ、アンコールということになれば、べつの話だがね」 「わかった。しかし一般論として、刑務所を出て来た人間は、金に困るのがふつうだよ。家族のところに帰って行ける連中はべつとして、その日の生活にも困って罪をかさねる連中が多いのに、彼はいちおう、あの程度のアパートを借りて、曲りなりにも世帯道具をそろえ、何とか暮《くら》していたんだ。その金はどこから出たのかな?」 「それは分からん。まあ、このところ五、六年は、そんなに貨幣価値《かへいかち》の変動はなかった。前のかせぎの何割かを、うまくどこかに温存していたとしたら、出て来てからもしばらく、そんなに困らんで、暮して行けたんじゃなかろうか」 「それは何ともいえないな。たとえば彼が出て来てから、また何か、ほかの犯罪に加担したということもないとはいえまい。刑務所という場所は、考え方によっては、一種の犯罪大学だともいえないことはないからな」 「うむ……」  警部は電話の向うでうなった。 「それは当然調べるが、いまの段階では何もつかめていないというのが正直な話だ」 「それで、殺された男と、あの晴美という女の過去の関係は?」 「それも目下《もつか》調査中だ。また何か、手がかりがつかめたら、それとなく知らせるよ」  警部の電話は、それで終った。     五  それから三日目のことだった。  英策の事務所へ、添田恒一《そえだこういち》という四十がらみの男が訪ねて来た。名刺《めいし》には、丸敏《まるとし》産業株式会社社長とあるが、少なくとも世間にはあまり名前の通った会社ではない。まあ、ふつうの中小|企業《きぎよう》だろうと、英策は男の顔を見る前から考えていた。  ところが、物語というのは、完全に英策の意表に出た。 「先生、実は今朝《けさ》の週刊誌を見てあがったのですが、例のアムネジャの女のことです」 「あの女とあなたが何か?」  激《はげ》しい興味を感じて、英策は身をのり出した。 「彼女は、ひょっとしたら、私の死んだと思っていた前の家内ではないかと思ったものですから。写真が実によく似ているので」 「うかがいましょう。お話を」 「はい。それからこれは前もってお話しておきますが、いよいよという時までは、これを表沙汰《おもてざた》にしていただきたくはないのです。警察へ行かなかったのもそのためです。何しろいまの女房《にようぼう》はたいへんなやきもちやきですし、まだ真相もはっきりしないうちに、三流の週刊誌なんかに書きたてられることは、わたくしとしては困るのです」 「承知しました。お話し下さい」 「はい、七年前、私は神戸《こうべ》におりました。友人といっしょに、小さな会社をやっていましたが、その二年ほど前から、木下貴美子というバーの女に惚《ほ》れこんで世帯を持ったのです。その実家というのは、広島で一家|全滅《ぜんめつ》したようです。彼女だけは、どうにか生きのこったというのですが、原爆症《げんばくしよう》になるのではないかとずいぶん気にしていましたね。幸い、そちらのほうは、何ともなかったようですが、結婚《けつこん》生活に入ってから、精神状態に少し妙《みよう》なところがありました。もちろん、精神異常者というほどひどいものではなかったのですが、あの爆撃《ばくげき》の時のショックが、どこか神経にこたえたのかな——と、私は考えたことがあったくらいです」 「なるほど、それで?」 「七年前の三月二十日のことでした。私たちは、喧嘩《けんか》をはじめました。その原因は大したことのない、どこの家庭でもありそうなことでしたが、二人とも気が立っていたために、騒《さわ》ぎは大きくなりまして、あげくのはてには、女房《にようぼう》は家出《いえで》してしまったというわけです」 「わかりました。それで?」 「私も最初はたかをくくっていました。どうせ、実家も親類もいないことだし、二日や三日は友達《ともだち》の所を泊《とま》り歩いたところで、そうそう長くは続くまい。いずれ、我《が》を折ってもどって来るだろうと、たかをくくっていたのです。ところが、十日しても帰って来ないので、心配になって、警察へ捜索願《そうさくねがい》を出したのです。そうしたら、その年の秋になって、丹波《たんば》の山奥《やまおく》で、女の白骨死体が発見されまして、その洋服が家内のものによく似ていたものですから」 「分かりました。それで、あなたはそれを奥《おく》さんの死体と誤認《ごにん》なさって、葬式《そうしき》をすまされたというわけですね」 「そうです。入籍《にゆうせき》はしていなかったので、そちらの問題はありませんでしたが、人間として、私は出来るだけのことをしたつもりです。それからしばらくしてから、私はその友達と仲たがいをして、東京へ出て来ました。しばらくして、いまの女房とも結婚《けつこん》し、仕事のほうも何とか食える程度には漕《こ》ぎつけたのですが……そこへ今度の事件がおこったというわけでした」 「分かりました。すると、結局あなたとしては、現在では、かりにあの人がむかしの奥《おく》さんだったとしても、どうにも出来ないわけですね。七年前に、あなたの行動に何かの過失があったとしても、それは人間にはやむを得ないことでしょうし、またいまさら、いまの奥さんと離婚《りこん》して、あの人と結婚《けつこん》しなおすというわけにも行かないでしょう」 「それはたしかにその通りです。ただ、それでは理屈《りくつ》は通っても、人間としての私の気持は満足しないのですよ。たとえば、病気ということでしたが、それが医者でなおるものなら、場合によっては、その療養費《りようようひ》ぐらい、負担してもと思っています。それについて、表面に出ていない、いろいろの内輪話《うちわばなし》を、先生から前もってうかがえないかと思ったものですから」 「分かりました。ただ、それよりも大事なことは、彼女が、ほんとうに前の奥さんなのかどうかをお確かめになることじゃありませんか。他人の空似《そらに》ということはよくある例ですし、週刊誌の本文の写真は、ことにぼんやりしていますから」 「私もそう思います。ただ、先生もごいっしょに行っていただけますか? 私にして見れば、幽霊《ゆうれい》にでも会うような気持ですし、また前に先生のお話をよく腹に入れておいて、覚悟《かくご》をきめておきたいのです」  彼の話の調子は、いくらかしめっぽかったが、それでもその裏には、何かの力がみなぎっていた。  その夜、二人はまた「リド」の店を訪ねて行った。  もし、添田恒一の言葉があたっていたとしたら、これは実に微妙《びみよう》な場面だった。  運命の七年を越《こ》えて再会する男女——しかも女のほうでは、一度夫と呼んだこの男を、思い出せるかどうかも分からない場面なのだ。  どうしたことか、この夜、客足はまばらだった。女たちは、どっと二人のまわりに集まって来た。 「先生、この間はたいへんお世話になりました。こちらさまは?」  そばへ寄って来た晴美は、例の陰影《いんえい》のある声でたずねた。英策もこの瞬間《しゆんかん》は緊張《きんちよう》した。  男の顔には、何ともいえない興奮と動揺《どうよう》の色があらわれていたが、女は眉一筋《まゆひとすじ》も動かさなかったのである。 「僕の友達《ともだち》で、添田恒一さんという商事会社の社長だが、どこかであったことはない?」 「さあ、どこでしたかしら……」  晴美の表情には、ぜんぜん変化が感じられなかった。もちろん、うす暗い灯《あかり》の下では、微妙《びみよう》な変化は分からないが、少なくともその声は嘘《うそ》をついていると思えないものがあったのである。 「先生、やっぱり、僕をおぼえていないようですね」  晴美が席をはずしたとき、恒一は英策の耳にささやいて来た。 「間違《まちが》いはないのですね。あなたのほうには」 「ええ……」  無神論者の英策も、そのときは、越《こ》すに越せない人生の深淵《しんえん》というようなものを感じていた。だが、それと同時に、頭の犯波探知機《はんぱたんちき》にびりびりとひびいて来たものは、間もなく第二の犯罪がおこりそうだという恐《おそ》ろしい予感だった。     六  その翌日の夕方、英策は銀座《ぎんざ》へ黒崎警部を呼び出した。  警部もあまり元気のない様子だった。何しろ、つかみどころのあってないような事件だから、元気の出しようもないのだろう。 「これがたいていの事件なら、これだけ時間をかけたら、何かこれはという線が出て来るものだがね。流しの強盗《ごうとう》でもないかぎり」  ビールをろくにあけもせず、愚痴《ぐち》っぽいことをいうのである。 「でも、何か収穫《しゆうかく》はあったのかね」 「うむ。殺された男のところへは、時々|妙《みよう》な女がやって来たらしい。女給風の女で、泊《とま》っていったというが、これも身元はさっぱり分からない。例のアムネジャの女のほうも、ずいぶん張りこまして見たが、べつに怪《あや》しい点もない。横浜で刺《さ》されたときの状況《じようきよう》も、それから今までの経歴も、あの女のいっている通りだ。まあ、何人か恋人《こいびと》はいたらしい。その男たちもかたっぱしから洗って見たが、これはという相手は見つからない」  警部は、額《ひたい》に縦皺《たてじわ》を寄せながらいった。 「それでは、今度もまた幸運にめぐまれて警察を一歩リードできたらしいな」 「なに、何だって!」  警部はテーブルの上に、身をのり出した。 「彼女の——晴美の入院した病院は調べたろうな」 「もちろんだよ」 「その院長が、彼女に迷って、彼女がいちおう全快してからしばらく、看護婦の見習いみたいにして、置いておいたことを知っているかね」 「蛇《じや》の道は蛇《へび》か。よくそこまで調べあげたと感心はするが、それはいまさら、あんたに知らせてもらうまでのこともなさそうだね」 「それでは、彼女のもとの亭主《ていしゆ》があらわれたことを知っているかい」 「何だって!」  今度は、警部も文字通り飛び上がった。 「まあ、いいからゆっくり聞きたまえ。ビールでも飲みながらねえ」  英策は、かいつまんで、昨夜の奇妙《きみよう》な再会のことを物語った。 「あんたは、この七年目のめぐりあいをどう思う!」 「なるほどなあ……新版|朝顔日記《あさがおにつき》かねえ」  さすが、黒駒《くろこま》といわれるだけに、たとえもえらく古風だった。 「それでは早速、その男のほうを調べて見よう。どうも情報をありがとう」 「まあ、そんなに興奮しないがいいぜ。それよりも、今夜はのぞきに行こうじゃないか」 「警視庁の警部といっしょにか!」 「だから、興奮するなといっているんだよ。あの二人、晴美と七年前の亭主の水入らずの再会の場面をのぞこうというんだよ」 「何だって!」  これには曰《いわ》くがあると思ったのか、警部の眼《め》は異様な光をおびて来た。 「少し手あらい療法《りようほう》だが、こうしなければ、あの女のアムネジャはなおらないかも知れないからな」 「場所は?」 「神田《かんだ》だ。僕の知合いで、妙《みよう》なところに三百|坪《つぼ》の土地と小さな家を持っている男があって、そこにビルディングがたつので、高く売ったんだ。その家を一晩貸してもらうように話をつけた」 「あなたは何を考えている?」 「まあ、お代は見てのお帰りだよ」  英策は唇《くちびる》の端《はし》を歪《ゆが》めて笑った。     七  こういう家は、都会の盲点《もうてん》のような存在には違《ちが》いないが、まんざら例がないでもない。鍵《かぎ》を使って、堂々と玄関《げんかん》を入ると、英策は靴《くつ》をしまって、つくりつけの洋服|箪笥《だんす》の扉《とびら》を開けた。 「あんたは、ここへかくれてもらう。いよいよとなるまで、飛び出してもらっちゃ困るぜ」 「僕は警部になってから、しばらくこんなまねはしたことがないな」 「弱音《よわね》を吐《は》くなよ。しっ、早く」  ほとんどむりやりに、警部を箪笥へおしこんで、英策はどこかへ出ていった。  午後八時だった。玄関でがたりという音がした。男と女の話し声が聞こえ、部屋《へや》に入って来る足音が聞こえた。  葉巻《はまき》の香《かお》りがただよいはじめた。  間もなく、女同士の話し声が聞こえ、また誰かが部屋へ入って来る物音が聞こえた。 「ここでは、のぞこうたってのぞけんぞ」  警部は口の中でつぶやきながら、必死に部屋の様子に耳をすましていた。 「いったい僕をこんなところに呼び出してどういう話があるんだね」  この男の声には、警部も聞きおぼえがなかったが、これが英策の話した添田恒一に違《ちが》いないことは、感じでわかった。 「あなたこそ、わたしにどんな御用がおありなんです?」  これはたしかに晴美の声だった。  しばらく、何ともいえない沈黙《ちんもく》が続いた。 「昨夜はおききしませんでしたが、あなたはわたしの過去《かこ》を御存じなんでしょう。きっとむかしのわたくしと、何かの関係をお持ちでしょう」 「知らないね。僕は何にも知らないね。ただ週刊誌を見て興味をおこしたんで、大前田先生といっしょに飲みに行っただけさ」 「そうですか……」 「それだけだね。それだけの話だったら、僕はもう帰るよ」  男の立ち上がるかすかな音に、女の叫《さけ》びがだぶって聞こえた。 「待って下さい! 添田さん!」 「何だね。まだ何か用事があるのかい?」 「わたくしは思い出しました。あなたが、あなたが、私を殺したんです!」  警部は掌《て》に汗《あせ》を握《にぎ》りしめた。部屋には、一瞬《いつしゆん》、死のような沈黙があった。 「はははは、何をいうんだい。僕が君を殺したなんて、君は現在、こうして生きているじゃないか」 「いいえ、わたしは一度死んで、復讐《ふくしゆう》のため、あの世からよみがえって来たのです。地獄《じごく》の悪魔《あくま》が、あなたをつれもどして来いと命令して、この世へ送り返したのです」 「君は正気《しようき》か? それともほんとうに気が違《ちが》ってしまったのかね」 「わたしは今朝《けさ》、無名の手紙をうけとったのよ。あなたがわたしの夫だったと、七年前にわたしを殺させたのはあなただと、はっきり書いてあったのよ」 「はははは、馬鹿《ばか》な。そういえば、僕もやっぱり無名の手紙をうけとったんだぜ。貴美子は記憶《きおく》をなくしたように見せかけているが、実は仮病《けびよう》だ。小山十郎の殺害も彼女のしわざだし、次にねらっているのはお前だと、そういうことが書いてあったよ」 「馬鹿《ばか》な猿芝居《さるしばい》はよしてちょうだい!」  晴美の声は高くなった。 「あのころ、わたしはあなたの秘密を知りすぎていたのよ。麻薬《まやく》と密輸の真相を……それにまきこまれるのがこわくて、家をとび出したものだから……あなたは、秘密がばれるのを恐《おそ》れて、刺客《しかく》に小山をさしむけた」 「それは精神異常者の作り話だ」 「違《ちが》うわ。いまなら証拠《しようこ》もあるわ」 「それを警察へ持ち出そうというのか」 「もちろん、もちろんよ」 「そうはさせない。もう一度、地獄へ帰ってもらうとしよう」  英策の合図はなかったが、これ以上、警部は一秒も待てなかった。  箪笥《たんす》の扉《とびら》に体あたりするようにして飛び出した瞬間《しゆんかん》、鋭《するど》い銃声《じゆうせい》がひびいた。警部の眼《め》には、重なりあうようにして床《ゆか》に倒《たお》れた二人の男女の姿がうつった。  英策も同時にむこうのドアから姿をあらわした。その背後には、むかし女探偵《おんなたんてい》として名前を売った英策の妻、竜子《りゆうこ》も顔をのぞかせていたが、警部は挨拶《あいさつ》どころではなかった。  二人は死んだように動かなかったが、その体の下からは血がしだいに床《ゆか》に大きくひろがっていった。  それを見つめた竜子はまた外へとび出して行った。一一〇番へ電話をかけようとしているのだろう。 「男は死んだ。女のほうは生きている」  英策はひくくつぶやいて、晴美の体をだきおこした。さすがにその顔は真青《まつさお》だった。吐《は》き出す息もあらあらしく、 「先生……こいつがわたしをうとうとしたんです。わたしが腕《うで》へとびついて、銃口《じゆうこう》をむこうにおしつけたので……」 「そうはいわせない。僕はちゃんと、殺人の現場を目撃《もくげき》していたんだ。君は先にピストルを出してうち、それをすばやく相手に握《にぎ》らせたんだ。そのピストルには、君の指紋《しもん》がついているだろう」 「でも、わたくしは手袋《てぶくろ》を……」  といいかけて、晴美は大きく身ぶるいした。きっと、自分が重大な失言をしたことに気がついたのだろう。 「今度は君も、アムネジャで逃《に》げるわけには行かないようだね」  英策は検事《けんじ》のような口調でいった。     八  添田恒一が、麻薬《まやく》密輸のかくれたボスの一人だったことが判明したのは、それから二日後のことだった。 「惜《お》しむらくは、生きた大魚《たいぎよ》も捕《とら》えきれずに死体をおさえたわけだがねえ」  黒崎警部は、英策をつかまえて残念そうに、 「僕たちのとび出すのが、あと三十秒早かったらなあ」 「そのかわり、どちらかがうたれて命にかかわったかも知れないよ。運命というものは、そんなものさ」  英策は何の屈託《くつたく》もなく笑った。 「結局、あの女のアムネジャというのは大芝居《おおしばい》だったんだね」 「そうだ。もちろん、最初は一種の記憶《きおく》障害も起こっていたらしいが、それもアムネジャというほど強度で永続的のものではなかったらしいな。医者の誤診《ごしん》をあの女は徹底的《てつていてき》に利用した。平常な状態にかえってからも、過去《かこ》のことは知らぬ存ぜぬでおし通したんだね」 「それで、自分の身の安全をはかり、復讐《ふくしゆう》の機会をねらっていたというわけだね」 「そうらしい。麻薬密輸の件では、彼女も一役買っていたのではないかと思われる節がある。それを、ほかの恋人《こいびと》が出来て逃《に》げ出したらしいから、彼等《かれら》から裏切者と見なされて、ねらわれたとしても無理はないかも知れん」 「その恋人はどうしたのだ」 「それもやつらの手にかかって死んでしまったらしいよ。復讐《ふくしゆう》——それも二重の意味だったんだね」 「たいてい、そんなところではないかと思っていた。夫一人を殺すことは出来ても、それでは現在|刑務所《けいむしよ》に入っている小山十郎に直接の復讐はできない。その二人の顔がそろうまで、七年間もアムネジャの仮面《かめん》をかぶって待ち続けたというわけだね」 「そうらしい。女の一念はこわいものだ」 「あの時、僕があの店へ行きあわせて手紙を見たのも、護衛《ごえい》をつとめようといい出したのも、それは偶然《ぐうぜん》だったろう。ただ、あのとき部屋《へや》の入口につっこまれた手紙は、いちばん後に部屋へ入った彼女自身の細工《さいく》だったろう。雨戸に石をたたきつけるのは誰かにたのんだのだろうが、その留守に、彼女はグラスの酒を壜《びん》にもどし、用意して来た毒をまぜ、もう一度グラスに注《つ》ぎなおしたのだろう。だから毒の濃度《のうど》が均一になったはずだ」 「図星《ずぼし》だね。ただ、あなたに一つだけ聞いておきたいことがある」  警部はちょっと眼を怒《いか》らせた。 「あの二人をさそい出した手紙というのは、あなたの細工だったんだろう。殺人の現場にいあわせて、それを防止できなかったことは、僕にも責任はあるが、あなたはああいう殺し合いがおこることを予想していなかったのかね」 「ある程度までは予想していた」 「ではなぜ?」 「われわれ人間というものは、運命の大きな力には干渉《かんしよう》できないものなんだよ。アムネジャこそ偽物《にせもの》だったとしても、地獄《じごく》の神々は決して無意味に、あの女をこの世へ送りかえしたわけじゃあるまい。それに、僕にしたところで、紙一重《かみひとえ》のところで殺され損《そこ》なったんだ。何の意味もない殺人の道づれに——いいかげん鬱憤《うつぷん》もはらしたくなるじゃないか」  大前田英策は、めったにない怒《いか》りをこめていったのだった。 角川文庫『姿なき女』昭和63年10月25日初版発行